終戦と帰国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/26 07:46 UTC 版)
1945年8月15日の終戦において、日本政府は海外各地にいた300万人以上の民間人の保護を放棄した。満洲・関東州や占領地域の民間人は大東亜省の管轄で、朝鮮・台湾・樺太の民間人は内務省の管轄だった。しかしいずれも在留日本人を現地に定着させる方針で、引き揚げの支援はなかった。8月9日のソ連対日参戦や終戦に合わせて軍人が民間人よりも先に引き揚げた地域もあり、女性・子供・老人を中心とする人々が残された。女性が性暴力にさらされる被害も多く、自治組織の男性幹部が女性に要求して、ソビエト連邦の兵士の相手をさせることも行われた。こうした相手は未婚女性から選ばれ、引き揚げ後に本土での偏見も受けた。 引き揚げや収容所生活の中で、中国人に引き取られたり買われて養子になった子供がおり、中国残留孤児と呼ばれた。中国残留孤児は満蒙開拓団がいた満州を中心に多く、1981年から1999年にかけて訪日調査が行われ、帰国を果たした人々もいる。判明している残留孤児全体の2818人のうち女性は1593人で、女性の方が多い。この理由として、男児は跡取りとして連れて帰るという親の意思があった点、女児は男児よりも値段が高かった点、当時の中国の価値観では女児が家に入ると男児が産まれやすくなると考えられていた点、などがある。また、殺害や自決の中で子供だけ生き残って引き取られた場合もあった。開拓民経験者の証言によれば、労働力の不足もあって日本の子供を育てることに抵抗がない中国人が多かった。 旧皇族の梨本宮家出身の李方子は、朝鮮半島の日本統治時代に大韓帝国の李垠の妃となっていた。日本で終戦を迎えたのちに臣籍降下によって在日韓国人となり、朴正煕政権の時代に李垠とともに韓国に帰国した。帰国後の方子は障害児教育に取り組んで韓国で親しまれ、葬儀では準国葬が行われた。
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