終戦から松江騒擾事件まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/30 14:20 UTC 版)
詳細は「松江騒擾事件」を参照 8月15日、玉音放送があった。岡崎は大日本言論報国会島根支部の同志とはかり決起を決意した。支部長の桜井三郎右衛門は参加していないが、決起を知っていた。8月24日早暁、岡崎は集団を「皇国義勇軍」と名乗り同志と共に決起計画を実施した。知事・検事正の暗殺は失敗したが、県庁の焼き討ちは予定よりも20分早かった。各隊の足並みは乱れた。新聞社・変電所への襲撃は計画通り実行に移されたものの、郵便局電話試験室の爆破、火薬店襲撃は失敗に終わった。各隊は松江放送局へ決起放送を強要したが、武装警官、兵士に囲まれ全員逮捕された。岡崎は切腹をはかったが、病院で蘇生した。松江地方裁判所、大審院で無期懲役の判決をうけた。服役は6年7ヵ月で、恩赦が2回「第2次大戦終結恩赦および日本国憲法公布恩赦」と「平和条約発効・講和恩赦」があり1952年出所した。
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