終戦と「逆コース」
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終戦を迎えた翌日、1945年8月16日に児玉と懇意にしていた大西が遺書を残し割腹自決した。児玉も急行し、駆けつけた児玉に「貴様がくれた刀が切れぬばかりにまた会えた。全てはその遺書に書いてある。厚木の小園に軽挙妄動は慎めと大西が言っていたと伝えてくれ。」と話した。児玉も自決しようとすると大西は「馬鹿もん、貴様が死んで糞の役に立つか。若いもんは生きるんだよ。生きて新しい日本を作れ。」といさめた。 終戦後、講和内閣の首班として東久邇宮稔彦王が組閣した時には東久邇宮自身は児玉を知らなかったが内閣参与となっていた[要出典]。1945年(昭和20年)12月2日、連合国軍最高司令官総司令部は日本政府に対し児玉を逮捕するよう命令(第三次逮捕者59名中の1人)。1946年初頭、A級戦犯の疑いで占領軍に逮捕され、巣鴨プリズンに送られた。その間、ジャパン・ロビーの暗躍により右翼をパージするGHQの方針が批判され、アメリカの占領政策は協力的な戦犯を反共のために利用する「逆コース」を走るようになった。1948年12月24日に釈放され、そこでCIAに協力するようになったかが今でも議論されている。確かなのは、拘留中に昭和通商との関係を暴かれていたことと、釈放後も続く調査で吉田彦太郎が児玉機関の所有した国内鉱山を明らかにしていること、そして後にCIAが、児玉を反共思想・軍閥構想の持ち主であると分析していることである。この間に公職追放となった。
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