終戦そして人生の終焉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 09:47 UTC 版)
太平洋戦争の終戦から4ヶ月弱経った1945年12月1・7両日、日比谷公会堂に於いてシューベルト作曲『冬の旅』全24曲のリサイタルを計4回開いた。この一連の公演では自身が疎開中に翻訳した日本語の歌詞が用いられている。 1946年に入ると目に見えて衰弱し始め、3月には大東学園病院に入院、膀胱癌のため一人では歩けない身体となっていた。 それでも同年3月21日に日比谷公会堂でシューベルトの歌曲集『美しき水車小屋の娘』全20曲のリサイタルを開いたほか、翌4月にはNHKからの依頼を受けて計3回の録音を行った《4月5・9・16各日》。 NHKに於ける3回目の録音から9日経過した1946年4月25日、大東学園病院から東京帝国大学(現・東京大学)付属病院に転院。手術の可能性を探りたいという医師側の意向からレントゲン検査を受けていた。しかし、翌5月22日には危篤状態に陥り、その4日後の5月26日午前5時20分に息を引き取った。なお、死の2日前(5月24日)には、昏睡状態の中、ドビュッシーの『バルコン(露台)』〔歌曲集『シャルル・ボードレールの5つの詩』から第1曲〕を口ずさんでいたという。 環の死去を受けて、死後2日経過した1946年5月28日に最初の入院先だった病院の母体である大東学園の講堂に於いて告別式が営まれた他、翌6月7日には日比谷公会堂に於いて音楽葬が盛大に営まれ、かつて世界三大『蝶々夫人』歌手の一人として知られたジェラルディン・ファーラーや、環との共演者の一人であるテノール歌手のジョヴァンニ・マルティネッリ等から追悼メッセージが寄せられた。 亡骸は、生前残した「富士山の見える湖畔で母とともに眠りたい」という遺言に基づき、前年(1945年)に亡くなった母・登波と共に、山中湖東岸に程近い平野部に所在する寿徳寺に葬られている。その裏手に建立された墓碑には「うたひめはつよき愛国心持たざれば 真の芸術家とはなり得まじ」と実筆の詩が刻まれている。
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