音楽葬
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フィリピンより生還した同部隊の帰還兵から、弘二死亡の報が大和紡績本社に届けられたのは、1946年(昭和21年)11月12日。戦死公報を貞朗が受け取ったのは、さらに遅れて1947年(昭和22年)3月23日であった。公報には、以下のように記載されている。 陸軍少尉 村野 弘二 右 二十年八月十日比島北部ルソン山岳州ブンヒヤンノ戦闘ニ於テ戦死セラレ候次第条此段通知候也 星野少尉から貞朗に対しての書簡に、終戦後の自決は認められないので終戦前の戦闘による死亡として報告した旨の説明があった。 1947年(昭和22年)4月26日 午後2時から、自宅において仏式による音楽葬が営まれた。導師は福井市興宗寺 北條鏡然師。法名は「馨樂院釋弘慧」。式次第は読経(仏壇に対して)、父親による略歴口述のあと、池尻景順による弔詞。続いて、 一連の音楽演奏(歌劇「白狐」のレコード演奏、小島 幸によるソプラノ独唱(伴奏 神沢哲郎)、神沢哲郎によるベートーベン「葬送行進曲」演奏、最後に弘二作曲・独唱 宗良親王御歌「君のため」のレコード演奏)があった。その後、読経(祭壇に対して)、焼香が行われ、最後に導師による法話があり、父親の挨拶で閉会した。 『葬儀の記』の中で父親は、「吾々遺族のせめてもの慰めとしては、弘二が終戦をしらず、敗戦の中に在りながら、一命を擲つるが真に陛下のおため、亦、お国の為めだと確信して死んだ事である」という言葉を残している。
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