音楽葬とは? わかりやすく解説

音楽葬

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/21 04:58 UTC 版)

村野弘二」の記事における「音楽葬」の解説

フィリピンより生還した部隊の帰還兵から、弘二死亡の報が大和紡績本社届けられたのは、1946年昭和21年11月12日戦死公報を貞朗が受け取ったのは、さらに遅れて1947年昭和22年3月23日であった公報には、以下のように記載されている。 陸軍少尉 村野 弘二二十年八月十日比島北部ルソン山岳州ブンヒヤンノ戦闘ニ於テ戦死セラレ候次第此段通知候也 星野少尉から貞朗に対して書簡に、終戦後自決認められないので終戦前の戦闘による死亡として報告した旨の説明があった。 1947年昭和22年4月26日 午後2時から、自宅において仏式による音楽葬が営まれた。導師福井市興宗寺 北條鏡然師。法名は「馨樂院釋弘慧」。式次第読経仏壇に対して)、父親による略歴口述のあと、池尻景順による弔詞続いて一連の音楽演奏歌劇白狐」のレコード演奏小島 幸によるソプラノ独唱伴奏 神沢哲郎)、神沢哲郎によるベートーベン葬送行進曲演奏最後に弘二作曲独唱 宗良親王御歌「君のため」のレコード演奏)があった。その後読経祭壇に対して)、焼香が行われ、最後に導師による法話があり、父親挨拶閉会した。 『葬儀の記』の中で父親は、「吾々遺族せめてもの慰めとしては、弘二が終戦をしらず、敗戦中に在りながら、一命擲つるが真に陛下のおため、亦、お国の為めだと確信して死んだ事である」という言葉を残している。

※この「音楽葬」の解説は、「村野弘二」の解説の一部です。
「音楽葬」を含む「村野弘二」の記事については、「村野弘二」の概要を参照ください。

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