流行歌手に
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/19 04:02 UTC 版)
声楽を下八川圭祐に師事し音楽コンクールの声楽部門で「我恨まず」(シューマン)「仮面舞踏会」からのアリア「レナートの詠唱」を独唱して入賞した。 流行歌のレコードは、ニットーレコードでの「宇治茶摘唄」の吹込みが最初であった。大日本雄辯會講談社レコード部(現:キングレコード)専属になり、1933年プロ歌手となった。「河原月夜」「山は夕焼け」などを吹込んだ。放送オペラにも出演し、「椿姫」では医師の役を演じた。 日本ポリドール蓄音機株式会社(現:ユニバーサルミュージック (日本))で吹込んだ「赤城の子守唄」が1934年2月に新譜で発売され、空前のヒットとなった。その年には「国境の町」も大ヒットし、東海林も歌手としての地位を確立した。その後ポリドール専属となり、澄んだバリトンを活かして「むらさき小唄」「名月赤城山」「麦と兵隊」「旅笠道中」「野崎小唄」「すみだ川」「湖底の故郷」などのヒット歌謡で東海林太郎時代を到来させた。また、東海林は「谷間のともしび」など外国民謡においても豊かな歌唱力を示した。大戦中はテイチクへ移籍し、「あゝ草枕幾度ぞ」や「琵琶湖哀歌」、「戦友の遺骨を抱いて」などを吹き込んでいる。 戦後は、戦前のヒット曲が軍国主義に繋がるとして国粋的なヤクザものが禁止され、進駐軍からも睨まれ、東海林も不遇の時代が続いた。 1946年、ポリドール復帰第一作が「さらば赤城よ」。1949年、キングレコードへ復帰する。1953年、日本マーキュリーレコードへ移籍。その後、次第に地方公演で人気を回復し1957年、東京浅草国際劇場で「東海林太郎歌謡生活25周年記念公演」を開催。1963年には、任意団体(当時)日本歌手協会の初代会長に就任。空前のなつかしの歌声ブームのなか、東海林太郎の人気が復活し、懐メロ番組に出演するなどして脚光を浴びた。1965年、紫綬褒章受章。 1972年9月26日午後2時30分頃、立川市内の知人宅で、調子の悪そうな歩き方を心配したマネージャーに「調子が悪いのではないか」と問われ、「自分の体の調子は自分が一番よく知っている。眠たいだけだよ」と横になり、そのまま意識不明に陥った。翌日午前には立川中央病院へ入院。次男、妹の手を握り、数人のファンに見守られ、10月4日午前8時50分、脳内出血のため死去した。73歳没。葬儀は史上初めての「音楽葬」だった。
※この「流行歌手に」の解説は、「東海林太郎」の解説の一部です。
「流行歌手に」を含む「東海林太郎」の記事については、「東海林太郎」の概要を参照ください。
- 流行歌手にのページへのリンク