流行歌の鼻祖
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二村は、1920年代初頭にいち早く海外のポピュラーソングに興味を持って独学で歌唱法を習得していた。 そのため1920年代後半には、大阪のユニオンダンスホールで活躍していた井田一郎のジャズバンドにヴォーカリストとして参加するなど、日本有数のジャズシンガーとなっていた。 一方では1927年7月20日ヴェルディの「リゴレット」、9月21日、同じヴェルデイの「アイーダ」、11月23日ワーグナーの「タンホイザー」のラジオオペラに出演したり、リサイタルを開き、マスカーニの「カヴァレリア・ルスティカーナ」やヴェルディの「イル・トロヴァトーレ」の一部や「帰れソレントへ」などを唄うなど新進テナー歌手としても活躍した。 レコードについては、浅草オペラ時代の1924年(大正13年)から佐々紅華の脚本・作曲による喜歌劇やお伽歌劇を吹き込みはじめ、1925年(大正14年)からはニッポノホンで「テルミー」などの外国曲を吹込んだ。 昭和に入ると、天野喜久代とともに堀内敬三によって起用され、放送オペラに出演するほか、1928(昭和3年)にはニッポノホン、ビクターで吹込んだ堀内訳詞による「私の青空(あほ空)」「アラビヤの唄」が大ヒット。 1929年(昭和4年)にはビクターから発売された「君恋し」「浪花小唄」「神田小唄」が連続してヒットし、佐藤千夜子ともにレコード歌手第一号と呼ばれた。 1930年(昭和5年)夏、コロムビアに移籍してからは、「エロ草紙」「チョンマゲ道中」などの中ヒットが多く、その後タイヘイ、太陽などのマイナーレーベルからも200曲以上を発売。 「東京行進曲」の佐藤千夜子とともに、日本の流行歌手のパイオニアであった。口さがないファンは、二村の大きな鼻に引っ掛けて「流行歌の鼻祖」と呼んでいた。 二村は明快な歌声であるが、ジャズもよくする傍ら邦楽もそつなくこなし、1930年代にアメリカのポピュラー音楽界で主流であったクルーナー唱法をもマスターするなどその技術面は際立っていた。 一方では「笑ひ薬」のようなコミックソングを豊かな表現力で歌い、技巧的にも優れていた。 1930年(昭和5年)、カジノ・フォーリーの公演に参加して以来榎本健一と行動をともにし、同年一緒にプペ・ダンサントに加入。カジノ・フォーリーが川端康成により新聞小説「浅草紅団」に紹介され、一躍大人気を博した。 文才もあり俳優としての才能に富んでいた。全盛期のステージは 「・・・古老から、名古屋公演のようすを聞いたことがある。「ソーニャ」の演奏に合わせて、舞台の袖からセーラーズボンで颯爽と歌いながら登場した二村定一はぞくぞくするほど格好よかった。・・・」 という。 レコード歌手としての活躍後はボードビリアンとして活躍した。愛称の『ベーちゃん』は本人は「ベートーヴェンに似ているからだ」と言っていたが実際はその大きな鼻がシラノ・ド・ベルジュラックを連想させるところから付いたものだといわれている。 1931年(昭和6年)に榎本健一と二人座長で立ち上げたピエル・ブリヤントは浅草の人気を独占した。映画への進出によって、その人気は全国的なものとなった。PCL映画「エノケン主演 青春酔虎伝」の出演を皮切りに、「エノケンの近藤勇」「千万長者」「どんぐり頓兵衛」「ちゃっきり金太」と映画は連続ヒット。舞台においても野球人気に便乗した「民謡六大学」が大当たりした。 ただ、エノケンの人気が先行した(劇団も「エノケン一座」と呼ばれるようになった)ことに腹を据えかねた二村は、たびたび一座を離れ、小林千代子一座などを転々とし、1940年(昭和15年)の東宝映画「エノケンの弥次喜多」を最後に袂を分かち、独立した活動を行うようになってしまい、以降は浅草の舞台を中心に細々と舞台活動を続けていた。
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