流行極期とは? わかりやすく解説

流行極期

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/02 23:58 UTC 版)

マルセイユの大ペスト」の記事における「流行極期」の解説

家屋硫黄を燃やす等の対策無効であった旧市街地ではペスト勢いはますます盛んとなり、裕福な人々マルセイユ市を離れ郊外別荘へと避難したガレー船部隊は、この疫病ペストであるという確証持った隊付医師要請により、浮桟橋によって隔離され工廠内部へと退避した経済的に余裕のない人たちは、サン・ミッシェル平原現在のジャン・ジュール広場)に大規模なキャンプ設営した1720年7月31日プロヴァンス高等法院マルセイユ住民に対してマルセイユからの脱出および周辺地域との往来禁じ違反者死刑とする旨発令した。 当法院臨時法定は、疫病マルセイユ蔓延しているとの風聞接し、同市の住民がその市城から出ることを禁ずるまた、プロヴァンス地方全ての町村に対しては、マルセイユ市民連絡取った迎え入れたりすることを、驢馬引きや荷車引きに対してはその地に足を踏み入れることを禁ずる違反者は、理由何たるかを問わず死刑処す。 — プロヴァンス高等法院蔵持 不三也 著, ペスト文化誌―ヨーロッパ民衆文化疫病, pp.240, 朝日新聞出版, 1995. 8月9日以降毎日100人以上が死亡した隔離所はもはや病院収容しきれなくなり遺体街路投げ出されそのままになっていた。8月中旬モンペリエ大学からフランソワ・チコノーとヴェルニーという医師ルイ15世摂政オルレアン公フィリップ2世の命によりマルセイユ訪れルイ15世侍医ピエール・シラクに報告した。彼らはサレルノ医学校英語版)に準じた教育受けており、マルセイユ医師たちが受けたスコラ的訓練とは対照的なのだったが、彼らの診断は明白であった疫病とはペストであった8月末にはマルセイユの全領域感染拡大し、港とガレー船海軍工廠広大な敷地によって隔離されていたリーブ・ヌーヴ地区含まれていた。この地域の長ニコラ・ローズによる対応策にもかかわらず旧市街地との往来を完全に遮断することは不可能であり、その結果感染拡大したのである死者1日300人に増加し一家全滅となる家庭珍しくなく、旧市街街路遺体一杯となった教会次々にその門戸閉ざした死者はやがて1日1000人に達した様々な自治体高等法院によって多く規制設けられた。規制調和させるため、1720年9月14日国務院すべての措置無効とし、マルセイユ市の封鎖海上警察制限宣言した。しかしこの処置もまた遅すぎた。ペスト菌はすでに内陸部浸透し鎮圧にはラングドックプロヴァンスでは1722年9月22日最後検疫命じられるまでさらに2年を必要とした。フランス他の地域を守るため防疫線内陸部にも設定され、ヴォークリュズの山間部にある「疫病壁」はジャブロンを経由してデュランスまで、やがてアルプス山脈まで延長された。

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流行極期

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/22 05:52 UTC 版)

ロンドンの大疫病」の記事における「流行極期」の解説

7月最終週ロンドン死亡表では3014人の死亡、うち2020人が疫病での死亡であった疫病以外の死因一般にはるかに少なく平年300程度なので、疫病による死者過小評価されている可能性がある。 疫病犠牲者増加すると、埋葬用の土地過密になり、遺体収容するために穴が掘られた。遺体輸送車運転者は「遺体はないか」と呼びかけながら街路通り遺体収容した。市当局死者の数市民の不安を引き起こすではないか懸念するようになり、遺体の回収埋葬夜間のみにするよう指示した。 時がたつにつれ、遺体回収するには犠牲者の数あまりにも多くなり、遺体輸送車運転手あまりにも数が少なくなったため、遺体は家の壁に積み上げられようになった日中遺体収集再開され集団墓地腐敗する遺体で山のようになっていた。オールゲート教区では、教会敷地50フィート長さ20フィートの幅を持つ大きな穴が掘られた。一方端から遺体運送者が遺体運び入れ一方で反対側では労働者によって掘削続けられた。掘る場所がなくなると掘り下げられ、深さ20フィート地下水にぶつかるまで掘削された。最終的に埋葬終わった時には1114体の遺体収容された。 ペスト医師たちが街路横切り犠牲者診察していたが、その多く正式な医学的訓練受けていなかった。いくつかの公衆衛生処置試みられた。市当局によって医師雇われ埋葬詳細慎重に組織化されていたが、恐慌は市全域拡大し伝染するではないかという恐れから、遺体性急に過密な墓穴葬られた。病気伝播どのようにして起こるかは知られていなかったが、動物と関係があるのではないか考えられていたため、ロンドン市すべてのを殺すよう指示していた。 はこの疾患原因となるネズミノミ媒介するネズミの数を調節する作用をもっていたので、この決定によって疫病が続く期間が影響受けた可能性がある。悪い空気によっても伝染する考えられていたため、当局街路家屋巨大な焚火設けるよう指示し空気清浄になることを期待して昼夜問わず燃やされ続けたタバコ予防薬になると考えられており、後にこの疫病の流行死んだロンドンタバコ商人1人出ていないといわれるようになった交易商業活動停止し遺体搬送車と瀕死犠牲者のほか、街路歩く人間はいなくなった。このことを目撃したサミュエル・ピープス日記にこう記している。「神よ街路これほど空白となるとは。そして哀れな病人街路でうめく姿のなんと憂鬱なことか。ウェストミンスターでは医師一人もなく、牧師一人残されたほかは皆死んでしまった。」" ジョン・ローレンス卿と市当局編制した委員会このような事態予測しロンドン港から荷揚げされる穀物を1クォーターあたり1ファージング市場価格上乗せし買い上げていたため、人々餓死することはなかった。 ロンドン周辺の町からも食料もたらされたが、通常のロンドンでの取引拒み特別に定められ地域野菜類を置き、叫ぶことで交渉し、「解毒」のため酢で満たされ容器硬貨浸してから支払回収した記録では、ロンドンとその郊外での疫病死は漸増し、夏は週に2000人だった死者9月には7000人以上に達した。この記録はかなり過少数字である可能性が高い。記録作成する教区管理人教区庶務自身多く死んでいた。クエーカー教徒協力拒み集団墓地投げ込まれ貧民多く記録されていない翌年ロンドン大火記録破壊され回復できた記録から作成しているため、真の死者の数不明である。当時の記録温存されている少数地区では、疫病死は全人口の30-50%を占めている。 この流行ロンドン集中したが、他の地域にも波及したその中でも最も有名な事例思われるのがダービーシャーイームである。ロンドンから布を運んできた商人持ち込んだとされている。村人商人これ以上疫病広げないよう、隔離強制した。この処置によって疫病さらなる流行食い止められたが、続く14か月村人33%が死亡した

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