流行極期
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「マルセイユの大ペスト」の記事における「流行極期」の解説
家屋で硫黄を燃やす等の対策は無効であった。旧市街地ではペストの勢いはますます盛んとなり、裕福な人々はマルセイユ市を離れ、郊外の別荘へと避難した。ガレー船の部隊は、この疫病がペストであるという確証を持った隊付医師の要請により、浮桟橋によって隔離された工廠内部へと退避した。経済的に余裕のない人たちは、サン・ミッシェル平原(現在のジャン・ジュール広場)に大規模なキャンプを設営した。1720年7月31日、プロヴァンス高等法院はマルセイユの住民に対して、マルセイユからの脱出および周辺地域との往来を禁じ、違反者は死刑とする旨発令した。 当法院の臨時法定は、疫病がマルセイユに蔓延しているとの風聞に接し、同市の住民がその市城から出ることを禁ずる。また、プロヴァンス地方の全ての町村民に対しては、マルセイユ市民と連絡を取ったり迎え入れたりすることを、驢馬引きや荷車引きに対してはその地に足を踏み入れることを禁ずる。違反者は、理由の何たるかを問わず死刑に処す。 — プロヴァンス高等法院、蔵持 不三也 著, ペストの文化誌―ヨーロッパの民衆文化と疫病, pp.240, 朝日新聞出版, 1995. 8月9日以降、毎日100人以上が死亡した。隔離所はもはや病院を収容しきれなくなり、遺体は街路に投げ出されそのままになっていた。8月中旬、モンペリエ大学からフランソワ・チコノーとヴェルニーという医師がルイ15世摂政オルレアン公フィリップ2世の命によりマルセイユを訪れ、ルイ15世の侍医ピエール・シラクに報告した。彼らはサレルノ医学校(英語版)に準じた教育を受けており、マルセイユの医師たちが受けたスコラ的訓練とは対照的なものだったが、彼らの診断は明白であった。疫病とはペストであった。 8月末にはマルセイユの全領域に感染は拡大し、港とガレー船海軍工廠の広大な敷地によって隔離されていたリーブ・ヌーヴ地区も含まれていた。この地域の長ニコラ・ローズによる対応策にもかかわらず、旧市街地との往来を完全に遮断することは不可能であり、その結果感染が拡大したのである。死者は1日300人に増加し、一家全滅となる家庭も珍しくなく、旧市街の街路は遺体で一杯となった。教会は次々にその門戸を閉ざした。死者はやがて1日1000人に達した。 様々な自治体や高等法院によって多くの規制が設けられた。規制を調和させるため、1720年9月14日国務院はすべての措置を無効とし、マルセイユ市の封鎖、海上警察の制限を宣言した。しかしこの処置もまた遅すぎた。ペスト菌はすでに内陸部に浸透し、鎮圧にはラングドックとプロヴァンスでは1722年9月22日に最後の検疫が命じられるまでさらに2年を必要とした。フランスの他の地域を守るため防疫線が内陸部にも設定され、ヴォークリュズの山間部にある「疫病の壁」はジャブロンを経由してデュランスまで、やがてアルプス山脈まで延長された。
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流行極期
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7月の最終週、ロンドンの死亡表では3014人の死亡、うち2020人が疫病での死亡であった。疫病以外の死因は一般にはるかに少なく、平年は300人程度なので、疫病による死者は過小評価されている可能性がある。 疫病の犠牲者が増加すると、埋葬用の土地は過密になり、遺体を収容するために穴が掘られた。遺体輸送車の運転者は「遺体はないか」と呼びかけながら街路を通り、遺体を収容した。市当局は死者の数が市民の不安を引き起こすのではないかと懸念するようになり、遺体の回収と埋葬は夜間のみにするよう指示した。 時がたつにつれ、遺体を回収するには犠牲者の数はあまりにも多くなり、遺体輸送車の運転手はあまりにも数が少なくなったため、遺体は家の壁に積み上げられるようになった。日中の遺体収集が再開され、集団墓地は腐敗する遺体で山のようになっていた。オールゲート教区では、教会の敷地に50フィートの長さと20フィートの幅を持つ大きな穴が掘られた。一方の端から遺体運送者が遺体を運び入れる一方で、反対側では労働者によって掘削が続けられた。掘る場所がなくなると掘り下げられ、深さ20フィートで地下水にぶつかるまで掘削された。最終的に埋葬が終わった時には、1114体の遺体が収容された。 ペスト医師たちが街路を横切り、犠牲者を診察していたが、その多くは正式な医学的訓練を受けていなかった。いくつかの公衆衛生的処置が試みられた。市当局によって医師が雇われ、埋葬の詳細は慎重に組織化されていたが、恐慌は市全域に拡大し、伝染するのではないかという恐れから、遺体は性急に過密な墓穴に葬られた。病気の伝播がどのようにして起こるかは知られていなかったが、動物と関係があるのではないかと考えられていたため、ロンドン市はすべての犬や猫を殺すよう指示していた。 犬や猫はこの疾患の原因となるネズミノミを媒介するネズミの数を調節する作用をもっていたので、この決定によって疫病が続く期間が影響を受けた可能性がある。悪い空気によっても伝染すると考えられていたため、当局は街路や家屋に巨大な焚火を設けるよう指示し、空気が清浄になることを期待して昼夜を問わず燃やされ続けた。 タバコは予防薬になると考えられており、後にこの疫病の流行で死んだロンドンのタバコ商人は1人も出ていないといわれるようになった。 交易や商業活動は停止し、遺体搬送車と瀕死の犠牲者のほか、街路を歩く人間はいなくなった。このことを目撃したサミュエル・ピープスは日記にこう記している。「神よ!街路がこれほど空白となるとは。そして哀れな病人が街路でうめく姿のなんと憂鬱なことか。ウェストミンスターでは医師は一人もなく、牧師が一人残されたほかは皆死んでしまった。」" ジョン・ローレンス卿と市当局が編制した委員会がこのような事態を予測し、ロンドン港から荷揚げされる穀物を1クォーターあたり1ファージング市場価格に上乗せして買い上げていたため、人々が餓死することはなかった。 ロンドン周辺の町村からも食料はもたらされたが、通常のロンドンでの取引を拒み、特別に定められた地域に野菜類を置き、叫ぶことで交渉し、「解毒」のため酢で満たされた容器に硬貨を浸してから支払を回収した。 記録では、ロンドンとその郊外での疫病死は漸増し、夏は週に2000人だった死者は9月には7000人以上に達した。この記録はかなり過少な数字である可能性が高い。記録を作成する教区管理人も教区庶務係自身も多くが死んでいた。クエーカー教徒は協力を拒み、集団墓地に投げ込まれた貧民の多くは記録されていない。翌年のロンドン大火で記録は破壊され、回復できた記録から作成しているため、真の死者の数は不明である。当時の記録が温存されている少数の地区では、疫病死は全人口の30-50%を占めている。 この流行はロンドンに集中したが、他の地域にも波及した。その中でも最も有名な事例と思われるのがダービーシャーのイーム村である。ロンドンから布を運んできた商人が持ち込んだとされている。村人は商人がこれ以上疫病を広げないよう、隔離を強制した。この処置によって疫病のさらなる流行は食い止められたが、続く14か月で村人の33%が死亡した。
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