終戦とその後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/13 14:12 UTC 版)
1918年10月、オーストリア=ハンガリー帝国は崩壊し始め、30日に皇帝カール1世は艦隊のザグレブの国民評議会への引き渡しを決めた。しかし、戦後大半の艦艇は連合国間で分配されることとなった。 「タトラ」はイタリアに与えられ、1920年9月27日に「Fasana」と改名。10月16日にポーラへと曳航されて同型艦用の部品取りとされた。1923年7月5日に廃棄となり、その後解隊された。
※この「終戦とその後」の解説は、「タトラ (駆逐艦)」の解説の一部です。
「終戦とその後」を含む「タトラ (駆逐艦)」の記事については、「タトラ (駆逐艦)」の概要を参照ください。
終戦とその後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/23 15:01 UTC 版)
「ロシア・ポーランド戦争 (1605年-1618年)」の記事における「終戦とその後」の解説
結局、ジグムント3世は自らツァーリになることも、息子ヴワディスワフの得たツァーリの地位を全うさせることもできなかったが、ポーランド・リトアニア共和国の領土を東へ拡張することはできた。交渉の結果、1618年12月11日、デウリノで休戦条約が結ばれ両国間の戦争は終結し、ポーランドの占領地のうちチェルニゴフ、ノヴゴロド・セーヴェルスキー、スモレンスクを含む一部をポーランド領とし、14年半の休戦を宣言した。ジグムント3世はすでにツァーリの主張を放棄していたが、ヴワディスワフはツァーリであることを放棄しようとしなかった。ポーランドは領土を得たものの、消耗した人命と資金と比べれば代価の高すぎる勝利であった。 1632年にデウリノの休戦の効力が切れると、両国の敵意は再び高まり、スモレンスクをめぐる戦争(スモレンスク戦争)が勃発した。この時はジグムント3世が没した後で、連合の結束は弱いとみたロシアから戦争を仕掛けた。しかしミハイル・シェイン率いるロシア軍はスモレンスクを包囲したものの奪うことはできず撤退を強いられ、1634年にポリャノフカ条約を受け入れた。ロシアは2万ルーブルを連合に支払わざるをえなかったものの、ポーランド王に即位していたヴワディスワフ(ヴワディスワフ4世)は自分が全ロシアのツァーリであるとの主張を放棄し、ミハイル・ロマノフをロシアのツァーリとして認め、王権の象徴となるレガリアを返却した。
※この「終戦とその後」の解説は、「ロシア・ポーランド戦争 (1605年-1618年)」の解説の一部です。
「終戦とその後」を含む「ロシア・ポーランド戦争 (1605年-1618年)」の記事については、「ロシア・ポーランド戦争 (1605年-1618年)」の概要を参照ください。
- 終戦とその後のページへのリンク