ポリャノフカ条約とは? わかりやすく解説

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ポリャノフカ条約

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/01/05 23:13 UTC 版)

スモレンスク戦争」の記事における「ポリャノフカ条約」の解説

1634年の春までに、ロシアシェイン率い軍隊敗北しただけでなく、タタール南部国境から攻め込まれることになったフィラレート総主教前年没しており、彼の死によって戦争へ熱意薄れた1633年年末には、ツァーリ・ミハイルは紛争どのように終わらせるかを考えるようになっていた。ヴワディスワフ4世は、かつてロシアのツァーリ選出されたことがあり、現在もツァーリ位への要求続けていたため、戦争継続望んでいた。一方で、ポーランド・スウェーデン間のアルトマルクの和議失効する寸前であり、ロシア人同盟してスウェーデン攻め込むという考え出された。しかし、最高権機関であるセイムこれ以上紛争を望まなかった。プウォツク司教スタニスワフ・ウベンスキは、シェイン降伏2週間後に記している、「私達望みこれまでの国境維持すること、健康と福利保障することである。両国戦争の継続を望まなかったために交渉始め休戦協定ではなく恒久和平」を結ぼう考えた1634年4月30日和議開かれ5月にはポリャノフカ条約が調印され戦争終結した条約領土現状維持確定しロシア巨額戦争賠償2万ルーブル)を支払いその代わりヴワディスワフツァーリ称号放棄してロシアレガリア王権象徴)をモスクワ返還したロシアにとっては、係争中だった国境地帯対す要求取り下げることよりも、ヴワディスワフツァーリ位への権利放棄の方がはるかに重要な問題だったと考えられるミハイル正統性が完全に認められ国内安定大きく寄与したからである。軍事的に敗北したものの、ロシア外交上の勝利を得た

※この「ポリャノフカ条約」の解説は、「スモレンスク戦争」の解説の一部です。
「ポリャノフカ条約」を含む「スモレンスク戦争」の記事については、「スモレンスク戦争」の概要を参照ください。

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