航空総軍の設立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/03 04:24 UTC 版)
「第10飛行師団 (日本軍)」の記事における「航空総軍の設立」の解説
1945年(昭和20年)4月8日、本土防衛強化のため防衛総司令部を廃し軍令陸甲第60号により北海道を除く東日本の防衛を統轄する第1総軍、西日本の防衛を統轄する第2総軍と、軍令陸甲第54号により航空関係の部隊を統轄する航空総軍が創設され、4月15日午前0時を待って指揮権が発動された。これにともなって第10飛行師団は第6航空軍の隷下を脱し、再び第1航空軍の隷下に入ったが、本土の主要部および重要施設の防衛に関しては、関東甲信越における空陸の作戦を統轄する第12方面軍の指揮下に入れられた。 10飛行師団は防空任務に関しては第12方面軍の指揮下でありながら、本土決戦の決号作戦準備に関しては隷属している第1航空軍の指揮を受けるという二重の指揮系統である。同師団には多くの地上部隊が隷下あるいは指揮下となっていたが、改編により一部は第1航空軍の直轄となった。また飛行第47戦隊、飛行第244戦隊、独立飛行第17中隊は既述のように3月下旬より第30戦闘飛行集団の指揮下に入っていたが、今回の改編で第10飛行師団の隷下を脱し、第30戦闘飛行集団の隷下部隊となった。 4月19日午前、推定約60機のP-51戦闘機が関東地区に侵入した。P-51単独による来襲はこれが初めてで、日本軍の電波警戒機では低空で飛来する小型機の発見が困難であった。第10飛行師団は敵の小型機に対する戦闘は避けるよう命令されていたが、来襲する機種が判明するまでに師団戦力の一部が出動した。戦果は高射第1師団による撃墜1機、撃破1機のみが報じられている。 5月24日未明、駿河湾および相模湾方面から侵入した推定約250機のB-29爆撃機は3月9日夜の東京大空襲と同様に、ほとんどが単機で次々と東京西部に侵入し、中高度から焼夷弾と爆弾を投下した。その夜は強風で大火災となり6万4000戸以上が全焼したと記録されている。第10飛行師団は高射第1師団および海軍と合わせ、撃墜約30機の戦果が報じられた。米軍側の記録では出撃562機のうち502機が攻撃に参加し、損失は17機、損傷は69機、高射砲火は猛烈であったが戦闘機は大きな脅威ではなかったとしている。翌25日昼には硫黄島を発進した推定約60機のP-51戦闘機が関東地区の飛行場あるいは工場を攻撃し、夜には推定約250機のB-29爆撃機がまた東京上空に侵入し、市街地のうち焼け残っていた地区に対し焼夷弾攻撃を行った。第10飛行師団を含む日本陸海軍の戦果は撃墜47機(うち海軍によるもの22機)、撃破20機と報じられた。米軍記録は損失26機、損害が100機である。同じ米軍資料によれば、東京はこれまでの焼夷弾攻撃により全市街の50.8パーセントを焼失し、以後は焼夷弾攻撃の目標から除外されている。
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