電力戦の終焉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/14 09:28 UTC 版)
業績低迷は東京電灯でも同様で、「電力戦」の影響により関東大震災後順調に伸びていた電力料金収入は1927年上期に前年比4パーセント減となった。一方で「電力戦」以前から東京電灯では割高な購入電力の増加による事業費の高騰、社債・借入金増加による利息負担の増加に苦しんでおり、1926年下期に配当率を年率11パーセントから9パーセントへ引き下げ、1927年下期にはさらに8パーセントへ減配した。 電力戦による東京電力・東京電灯両社の経営悪化に、両社に対して巨額の融資をしていた三井銀行・安田銀行などの大手金融機関が危機感を抱くに至る。1927年春の昭和金融恐慌発生という状況下で、これ以上の競争激化は金融機関を巻き込んで日本の金融システムそのものを危機に陥れる可能性も生じたため、三井銀行筆頭常務池田成彬や安田銀行副頭取結城豊太郎が東京電力・東京電灯の和解・合併の斡旋に乗り出した。両社合併への動きは7月に始まるが、9月になっても意見の隔たりが大きく、合意に達することはなかった。 1927年12月になると、金融恐慌の影響により両社とも建設資金の調達に窮するようになったことから、合併に関して歩み寄りがみられた。最終的に同年12月24日、合併契約が締結されるに至る。その内容は、存続会社を東京電灯とし、合併比率は東京電力10株に対して東京電灯9株、東京電力側から松永安左エ門らが取締役として東京電灯に入る、といったものであった。合併は翌1928年(昭和3年)4月1日付で実施され、東京電力は消滅、東京電灯対東京電力の「電力戦」も完全に終結した。また合併の結果、東邦電力傘下の東邦証券保有(後述)が東京電灯の筆頭株主となり、東邦電力本体の持株とあわせて全株式のうち5パーセント余りを握ることになった。
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