東京電灯との合併とその後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/28 02:40 UTC 版)
「東京電力 (1925-1928)」の記事における「東京電灯との合併とその後」の解説
1927年12月24日付で東京電力と東京電灯の間に締結された合併契約の概要は以下の通り。 合併に際して東京電灯を存続会社とし、東京電力は解散する。 東京電灯は資本金を6142万5000円増加し(4億714万9000円とする)、増加に伴う新規発行株式を東京電力株主に交付する。その割合は東京電力の株式10株に対し新株9株。 東京電力の従業員は新規採用の形で東京電灯が引き継ぐ。 役員への功労金や従業員退職金など東京電力が解散に際して要する費用については東京電灯が支払う(別途協定により110万円と決定)。 合併期日は1928年(昭和3年)4月1日とする。 翌1928年1月16日、両社はそれぞれ臨時株主総会を開き上記合併契約の承認を得た。2か月後の3月22日には逓信省からの合併認可も得ている。この認可に際し、需要家の便宜を図って独占的にならないこと、料金をすみやかに統一すること、という条件が付けられ、東京電灯は需要家に対する既存契約を料金を改定せずそのまま引き継ぐこととなった。そして期日通りに1928年4月1日付で両社の合併は実行に移される。同年5月18日付で東京電灯側にて合併報告総会が開かれて合併手続きが完了し、同日をもって東京電力は解散した。 合併に伴い東京電灯では東邦電力の持株比率が高まり、同社系列の東邦証券が全株式のうち4.6パーセントを保有する筆頭株主となり、東邦電力本体も1.7パーセントの株式を持つ大株主となった(1929年下期時点)。合併時の合意の通り、合併報告総会にて松永と宮口竹雄が東京電灯取締役に就任している。合併により、水力93,247 kW・火力48,150kWに及ぶ発電設備をはじめとする発送変電設備は東京電灯に引き継がれた。東京電力の傍系会社については、東京湾電気は東京電灯傘下に入り、関東地方の上毛電力と群馬水電(須川電力から改称)は東京電灯へ供給する発電会社として存続したが、大井川電力(寸又川電気から改称)は東邦電力の傘下に残った。 東京電灯社内では、合併手続き中の1928年3月に副社長となった小林一三によりさらなる経営改革が進められた。東京電力の合併に伴い継承した諸設備によって電力の運用効率が改善されて供給コストの低減をもたらし、電力戦の終結による無理な料金値下げに歯止めがかけられたこととあわせて一時的に経営の安定に繋がった。しかし1929年(昭和4年)9月、日本電力が南葛飾・南足立・北豊島3郡と横浜市鶴見区における電力供給を許可され、翌年より実際に供給を開始したことにより、今度は日本電力との間で需要家争奪戦を開戦した。対日本電力の電力戦は東京電力のときとは異なって既存需要家の争奪戦が主体であり経営への影響はより大きく、東京電灯の業績低迷は続いた。日本電力との対立が終結するのは池田・結城や逓信省の斡旋で営業協定が交わされた1931年(昭和6年)7月のことで、これをもって全国的に「電力戦」が収まった。 また東京電灯は、東京電力を合併してから1年以上が経過した1929年10月、1927年12月末に電力供給の許可を受けていた中京地方進出へ動き出し、名古屋営業所を再設置した。東京電力(東邦電力)との電力戦は終結していたにもかかわらず東邦電力への攻勢を仕掛けたのは、社長若尾璋八の強い意向のためという。名古屋と知多半島の岡田、三重県北部の富田の3か所に変電所を設置、白瀬発電所(愛知県、元早川電力所属)を起点に送電線を架設し、同年12月より中京地方での供給を開始した。だが1930年6月、中京進出を主導した若尾が業績不振で社長を解任され、会長の郷誠之助が会長兼任で後任社長に就くと社内の状況は一変し、当時不況下であったこともあり、二重投資を避けるとして中京地方からの撤退が決定した。1930年12月に東邦電力への事業譲渡認可があり、中京地方の事業は発電所を除いて同社へと譲渡された。譲渡資産は総額348万8716円90銭。供給実績は約800kW程度で、東邦電力と競争するほどにはなっていなかったという。
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