東京電燈との合併
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 15:21 UTC 版)
1914年(大正3年)利根発電との営業区域は差ほど変わらなかったが、需要密度、発電能力に大きな差があり東京電燈が利根発電を合併した際群馬県自体の営業区域の獲得を重要視してなく高崎水力電気の場合水力発電施設が利根発電に比べては魅力はなかったようである。高崎水力電気の電力需要数と電動機数と馬力数は1914年(大正3年)の需要家数11,463戸、電灯数26,112灯、電動機数は141、馬力数1,296から1921年(大正10年)の需要家数が55,336戸、電灯数108,680灯、電動機数832、馬力数5,962に着実に増えた。電動機の主な需要は地場産業の活況があり未点灯地区だった田園地帯などの精米や製粉などおおいに農耕作業に使われたようである。1920年(大正9年)頃電力供給を開始し本庄電気軌道へ50馬力、西上電気へ135馬力、惣社水力電気へ87馬力、西毛電気へ40馬力を送電した。このような需要の伸びに対して高崎水電は利根川支流の吾妻川、鳴沢川、烏川などに発電所を計画し、1915年(大正4年)6月にようやく厚田発電所が竣工し運転を開始した。1916年(大正5年)7月臨時株主総会で発電所新設を可決し1918年(大正7年)に完成した。第一次大戦の好景気の需要が増加し、供給追いつく事ができず1919年(大正8年)から1920年(大正9年)かけて長野電灯と東信電気と需要契約をして不足分(1,000kw)受電していた。発電所を増設しても1920年では供給力3分の1以上を受電に頼らなければならなかった。設備拡張は株式払込と借入金によって賄われた1917年上期と1920年上期の二回行われた。高崎水力電気は東京電燈の群馬県地域経営戦略の一環として1921年12月10日に合併し消滅した。高崎水力電気の旧本社はその後東京電燈の高崎出張所にとなったようである。 .mw-parser-output .asbox{position:relative;overflow:hidden}.mw-parser-output .asbox table{background:transparent}.mw-parser-output .asbox p{margin:0}.mw-parser-output .asbox p+p{margin-top:0.25em}.mw-parser-output .asbox{font-size:90%}.mw-parser-output .asbox-note{font-size:90%}.mw-parser-output .asbox .navbar{position:absolute;top:-0.75em;right:1em;display:none} この項目は、企業に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ウィキプロジェクト 経済)。
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