超電力連系の研究
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関西電気時代の1922年(大正11年)2月24日、社内に社長直属の「臨時調査部」が設置された。「電気事業は科学的に経営されるべき」という持論を持つ副社長松永安左エ門肝いりの組織で、東邦電力成立後の同年7月1日より常設の「調査部」に昇格、以後1927年(昭和2年)6月の廃止まで電気事業に関して広範な調査・研究にあたった。その研究の一つに、国外の電力系統、特にアメリカ合衆国の超電力連系(スーパー・パワー・システム)に関する研究がある。アメリカでの研究成果は、北米各地の発電所を同一の電力系統に組込み高圧送電線で需要地へと送電する、というシステムを形成した場合、地区ごとに電気事業を独立経営する場合に比べて事業の効率運営が可能、というものであった。 調査部では欧米各地における超電力連系の調査を踏まえ、超電力連系の日本への応用を研究した。その結論は、本州のうち福島・新潟両県から兵庫県に至る広範な地域に送電電圧220kVの送電幹線を建設、各地の発電所を連系し、それぞれの発電特性を活かした効率的な発送電体制を実現する、というものであった。こうした研究を下敷きに、松永は1923年(大正12年)に具体的な送電会社を立案、翌年4月には福澤桃介を創立委員長に立てて福島から兵庫まで220kV送電線を建設し電力の卸売りをなすという「大日本送電株式会社」の創立案を発表した。 大日本送電の設立案は当時としては時期尚早であり、まったく実現しなかったが、1923年9月に関東大震災が発生すると、東邦電力では調査部の研究を元に、新たに「東京復興電気会社」の設立計画書を作成した。供給区域は東京の下町一帯を想定し、震災復興によって商工業が発展し震災前以上の電力需要が見込まれるとして向こう35年間の電力需要量とこれに対応する発受電設備を計画したものであった。この計画がそのまま実行されたわけではないが、東邦電力は震災以後、震災復興のための電力供給の充実という旗印を掲げて東京進出の動きを強化していくことになる。後年に松永が語るところによれば、東京を地盤とする既存事業者東京電灯は放漫・消極経営で電気事業の責任を果たしていないのでこれの是正のため、さらには理想実現を目指し電気事業を自身の手で統一したいという野心があったため、東京進出を目指したという。
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