東邦電力への合併
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尾州電気への社名変更に続き、1919年9月12日、電気器具の製造販売や電気工事を目的とする名古屋市の名古屋電機(資本金60万円・1919年6月設立)を合併した。合併に伴う増資は60万円で、同時に神谷卓男(名古屋電灯常務)と青木義雄(名古屋電灯支配人)が取締役に加わっている。名古屋電灯との関係は電源方面でも動きがあり、翌1920年(大正9年)6月、名古屋と富田(三重県)を結ぶ名古屋電灯富田送電線から分岐し尾州電気とを繋ぐ送電線が完成した。名古屋電灯からの受電高は1921年(大正10年)6月時点では430キロワットであり、この段階では自社発電所を含めて他に電源を持っていない。 尾州電気唯一の電源となった名古屋電灯は、1920年代に入ると急速に規模を拡大していた。1920年から翌年8月にかけて合併した電力会社は一宮電気・岐阜電気・豊橋電気・板取川電気など愛知・岐阜両県にまたがる計6社にのぼる。さらに1921年10月には奈良県の関西水力電気と合併し関西電気となった。この関西電気も合併路線を進み、1922年6月にかけて周辺事業者9社と九州の九州電灯鉄道を合併した。尾州電気もこの時期に関西電気へ吸収された会社の一つである。株主総会における合併決議は尾州電気・関西電気ともに1922年(大正11年)1月12日付で行われており、特に関西電気側では九州電灯鉄道・北勢電気・時水力電気・愛岐電気興業・八幡水力電気の5社と同時の合併決議となっている。 合併時、尾州電気の資本金は120万円(うち60万円払込)で、全2万4000株のうち半分の1万2000株を関西電気が保有していた。関西電気との合併条件は、存続会社の関西電気が資本金を78万円増資し、解散する尾州電気の株主(自社保有分を除く)に対しその持株1株につき関西電気新株を1.3株の割合で交付する、また別途解散交付金として尾州電気側に3万1000円を交付する、というものであった。合併手続きは合併決議を経て1922年5月11日付で逓信省からの合併認可取得と進み、同年6月26日、関西電気での合併報告総会開催をもって完了、同日をもって尾州電気は解散した。 尾州電気を合併した関西電気は、合併で供給区域が中京・関西・九州に拡大したことを踏まえて合併と同日付で東邦電力へと改称した。また東邦電力成立の過程で吸収していた名古屋瓦斯の事業を元に同日付で子会社東邦瓦斯(東邦ガス)を設立する。この東邦ガスに対しては1年後の1923年(大正12年)4月1日付で旧尾州電気が経営していた一宮市・津島町のガス事業も東邦電力から譲渡された。しかし一宮市での供給が継続された一方で津島町での供給は採算が取れず同年9月15日に廃止されている。
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東邦電力への合併
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「中部電力 (1930-1937)」の記事における「東邦電力への合併」の解説
中部電力は設立以来東邦電力と緊密な関係を保ち、技術面では電力の受給地点が6か所となって両社はほとんど同一の電力系統を形成した。また発足当初は岡崎電灯が発展した会社という色彩が強かったが、次第に東邦電力の影響力が強くなっていったという。そして1937年(昭和12年)5月13日、両社は合併契約を締結するに至った。東邦電力が中部電力の合併に踏み切った背景には、当時具体化されつつあった電力国家管理政策に対抗する思惑があった。 東邦電力を経営する松永安左エ門は、1920年代から電力業界の統制を訴えていた人物であった。その主たる主張は、技術面では広大な地域の発電所を送電線で連系し発電力の過不足を調整するという「超電力連系」と、建設費が水力発電に比して安い火力発電を活用して供給を補うという「水火併用」であり、経営面では全国を数ブロックに分割し一つの地域には一つの事業者が独占的に供給する「一区域一会社主義」というものであった。これらの主張はただちに現実化するものではないため、まずは周辺地域の事業者と送電連系し供給力を相互補給する「電力プール」の形成を優先し、主張の具体化を始めた。中部電力の設立や、それに前後して行われた合同電気との提携、九州での送電連系はその一環である。 松永の経営面におけるもう一つの主張が、政府の規制強化とあわせた民有民営のままでの業界統制である。業界の自主統制が進展するならば、豊富で低廉な電気を供給する上では民営の方が有利であると訴えていた。松永の主張に対し、時代が昭和に入ると電力国営論が台頭し1936年3月に広田弘毅内閣が発足すると逓信大臣頼母木桂吉の下で逓信省が電力国家管理政策を主導するようになる。民間電力会社に発送電設備を出資させて特殊会社を新設し、同社を通じて政府自ら発送電事業を経営する、という「民有国営」の方向で国家管理政策は具体化され、10月には「電力国策要綱」が閣議決定されるところまで進んだ。内閣総辞職により成立しなかったが、翌1937年1月には関連法案が帝国議会へと上程された。 この電力国家管理政策の動きに対抗するため、松永は業界の自主統制を具体化する必要に迫られた。そこで従来からの主張である「一区域一会社主義」を実現させるため、東邦電力による周辺事業者の自主統合を始める。その中で1937年に、東邦電力は合同電気と中部電力の2社を相次いで吸収したのであった。
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