工場・鉄道への供給
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1933年12月、硫安・硝酸メーカー矢作工業(下記#化学事業と矢作工業参照)が工場の操業を開始した。矢作水力が余剰電力の受け皿として起業したもので、同社に対しては最大15,000kWを供給する。これに比べると小規模ながら、日清紡績との共同出資による日清レイヨンの工場も翌1934年に完成し、1,500kWの供給を始めた。 ところが日清レイヨンへの供給に際し、中部電力(岡崎)との間に紛争が生じた。同社は旧岡崎電灯を中心とする事業再編の結果1930年に発足した東邦電力傘下の電力会社である。紛争の発端は、岡崎市美合町(旧・美合村)に建設された日清レイヨン工場に対する特定供給を矢作水力が逓信省へ認可申請したことにある。同地の供給権を有する中部電力ではこれに反発、1932年末に実施されたばかりの改正電気事業法に基づく特定供給許可基準に抵触するという理由で矢作水力の認可申請に異を唱えた。この紛争は、逓信省が当事者間での妥協を慫慂したことから愛知電気鉄道社長藍川清成の仲介で解決が図られ、1933年6月末に (1) 日清レイヨンへの供給は中部電力の変電所を通じて矢作水力が行うことで名義上中部電力・実質上矢作水力の供給という形を採る、(2) 両社は競争を挑むあるいは相手に打撃を与える行為を相互に控える、という協定が交わされて収まった。 停戦から1年半後の1934年12月、中部電力との関係は豊田自動織機製作所の新工場に対する電力供給をめぐって再び悪化した。刈谷町に工場を置く豊田自動織機は上記の通り矢作水力の需要家(特定供給)であるが、西加茂郡挙母町(現・豊田市)に建設予定の新工場についても矢作水力で供給しようとしたことが紛争再燃の原因である。両社は先の紳士協定の解釈をめぐって正面衝突したが、挙母新工場計画自体が破棄されたため紛争は消えてしまった。その後豊田自動織機は刈谷工場の拡張を決定、これに伴う1,000kW受電増は1936年4月矢作水力に認められた。翌1937年5月に中部電力の東邦電力への合併が決定すると、対立関係の完全な解消を目指す動きがあり、より具体的な紳士協定が交わされた。その概要は、中部電力が矢作水力から受電を開始する一方、矢作水力は中部電力の供給区域内に直接供給を行わない、両社の重複供給区域では矢作水力が卸売り・中部電力が小売りをそれぞれ原則として担当する、というものであった。 1937年末時点では、3,000kW以上を供給する大口工場需要家には矢作工業(30,000kW供給)・大北工業(7,200kW供給)・昭和曹達(5,000kW供給)・豊田自動織機(3,700kW供給)の4社があった。この4社のうち豊田自動織機を除く3社はいずれも矢作水力の傘下企業にあたる。中でも矢作工業は大同電力・東邦電力に次ぐ社内3番目の大口需要家であり、1938年度下期には会社全体の総発受電量の2割にあたる9816万kWhが矢作工業1社に供給されていた。なお初期からの需要家である日清紡績には名古屋・岡崎・戸崎の3工場で計4,200kW、名古屋鉄道には計1,300kWを供給している(どちらも1937年末時点)。
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