東邦電力の参入
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/28 02:40 UTC 版)
「東京電力 (1925-1928)」の記事における「東邦電力の参入」の解説
東京方面への供給権を持つ早川電力・群馬電力の両社を関東大震災後に相次いで支配下に収めたのが東邦電力株式会社である。同社は愛知県の名古屋電灯や福岡県の九州電灯鉄道などの電力会社の再編により成立した当時の大手電力会社(「五大電力」の一つ)で、本社を東京に置くが中京地方や九州地方を供給地盤としていた。伊丹弥太郎が社長、松永安左エ門が副社長を務めていたが、実際には松永が主導する会社である(1928年社長昇格)。 東邦電力は成立の過程において天竜川に発電所を持ち浜松方面へと電力を供給する天竜川水力電気を合併し、日本楽器製造(現・ヤマハ)などの工場に対して供給しており、浜松を含む静岡県西部に供給する早川電力とは一部で競合する立場にあった。そこで東邦電力では早川電力ととの関係強化を試みたものの、関東大震災以前の段階では機が熟さず実現していなかった。ところが震災で早川電力の事業が行き詰ると、早川電力側から取締役の前田米蔵が松永に話を持ち掛け、関係強化の話が具体化されていった。そして1924年3月、東邦電力は早川電力について、早川電力側の内容整備を待って3年以内に吸収合併すると決定した。 1924年3月12日、資本金1500万円にて早川興業株式会社が設立された。東邦電力の出資によるもので、これを早川電力に合併させて同社の株式を取得することが設立の目的であった。早川電力側では同年3月31日の臨時総会にて早川興業の合併を決議する。このとき前田米蔵ほか2名を残して役員が辞任、東邦電力から新社長の松永安左エ門とその他3名が役員に送り込まれた。同年6月27日、早川興業の合併が完了。合併により早川電力の資本金は倍額の3000万円に増加するとともに、東邦電力が過半数の株式を保有する大株主となってその支配下に入った。また同時に田中徳次郎・角田正喬(東邦電力専務および常務)の2名が常務に就任している。 東京進出を狙う東邦電力は早川電力との交渉を進める一方、同社だけでは既存の東京電灯に対抗できないと見て、早川電力が安田銀行から融資されていた関係で安田系の群馬電力にも着目。松永安左エ門が安田銀行副頭取結城豊太郎に直接交渉を持ちかけて群馬電力との提携を先に成立させた。群馬電力は当時、京浜電気鉄道からの供給事業買収に失敗した東京電灯と対立し、料金値下げや送電方法改良などを実施した東京電灯に競争を仕掛けられており、資金を借り入れつつ抗戦したものの、不況もあって業績が伸び悩み株式の払込金徴収も困難な状況にあった。東邦電力との提携の結果1923年12月25日の株主総会にて松永と福澤桃介が群馬電力の取締役に当選、安田善五郎にかわって副社長の田島達策が社長に昇格、松永が後任副社長に就任した。また病気辞任した小倉鎮之助に代わり宮口竹雄(東京帝国大学出身の電気技術者、安田系の人物)が専務に就いている。 1924年4月、早川電力によって建設中の東京送電線が沼津(静岡県)まで完成。7月には川崎までの全線が完成し、早川電力も東京方面への送電を果たした。また早川電力から群馬電力への電力供給も開始された。
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