木曽川開発
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/17 17:23 UTC 版)
「木曽電気製鉄」も参照 福澤がまだ社長代理だった1914年初頭、社内に「臨時建設部」が設置された。名古屋電灯は当時すでに木曽川の八百津発電所より上流側(長野県側)に2地点の水利権を確保しており、別の地点での水利権出願や、既得水力地点の開発に向けた実施計画に関する調査などを手がけるための部署であった。 臨時建設部が発足した1914年には第一次世界大戦が勃発した。その後日本に大戦景気が訪れると電力需要は急増し、長良川・八百津両発電所の完成以来余剰電力の対策に苦心していた名古屋電灯でも反対に供給力の確保に追われることとなった。まず1915年(大正4年)9月、工期の短い火力発電所(熱田発電所)を新設。次いで1916年(大正5年)5月には八百津発電所の放水落差を活用する放水口発電所を建設している。同年2月、臨時建設部を拡充して水力開発に着手し、1918年(大正7年)4月矢作川に突貫工事で串原仮発電所を完成させ、木曽川では八百津発電所よりも大きな賤母発電所(出力12,600kW)を着工した。 業績について見ると、大戦勃発以降は供給拡大によって大幅な増収が続き、設備投資も好景気を背景に借入金ではなく株式払込金の徴収によって可能となったため、経営状態は改善に向った。大戦前、配当補充金が尽きた1913年下期に配当率を年率9パーセントから7.6パーセントに引き下げていたが、1914年以降増配となり、1918年には年率12パーセントの配当に復した。 1918年9月8日、名古屋電灯は木曽川の水利権、建設中の賤母発電所、矢作川の串原仮発電所、それに準備中の電気製鉄事業(後述)に関する資産を現物出資(評価額計200万円)し、木曽電気製鉄株式会社(後の木曽電気興業)を設立した。新会社の社長は福澤桃介が兼任。資本金は1700万円であり、名古屋電灯はこのとき資本金1600万円であったから、母体となった名古屋電灯よりも大きな会社であった。同社の新設で臨時建設部が独立した形となり、以降木曽電気製鉄が一切の電源開発を担い、名古屋電灯は同社より電力の卸売りを受けて配電事業に専念する体制となった。なお長良川・八百津両発電所も新会社に引き継がせる案があったが、名古屋電灯の供給責任上実行されていない。 木曽電気製鉄はその後、木曽電気興業と改称した直後の1919年(大正8年)11月、京阪電気鉄道関係者との共同出資により大阪送電株式会社を設立し、関西地方への送電を構想する。この大阪送電と木曽電気興業、それに山本条太郎率いる日本水力の3社が1921年(大正10年)2月に合併し、大同電力株式会社が発足している。
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