木曽川開発へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/01 16:20 UTC 版)
先に触れた通り、桃介は名古屋電灯の筆頭株主となり1910年6月には同社の常務取締役に昇っていたが、常務は在任5か月で一旦辞任した。しかしその後の経営悪化に伴って、経営陣に不満を持つ株主の中から、豊橋電気の再建や九州の電気事業で好成績を上げる手腕を期待して桃介に経営を一任すべしという意見が起るようになる。それを受けて1913年1月27日付で桃介は常務に再登板し、経営改革に着手する。同年9月には社長代理に指名され、次いで1914年12月1日付で社長に選出された。 名古屋電灯での活動は#事業・名古屋電灯も参照 名古屋電灯に入った桃介が主として手がけた事業は、中部地方を流れる木曽川の開発であった。松永安左エ門によると、桃介は「俺は木曽川で電力を起し、天下の水力王になるよ」と豪語していたという。桃介の木曽川開発は後年、「電気事業者としての福澤桃介氏は、木曽川を離れて福澤氏無く、福澤氏を離れて木曽川の開発無し」(『大同電力株式会社沿革史』)と評されている。桃介が実権を握った後の名古屋電灯は、1914年初頭、まず社内に臨時建設部を設置した。既設八百津発電所の上流側における木曽川開発を主たる任務とする部署で、水利権許可済み地点における設計変更や新水利権の出願などの手続きが始められた。 この木曽川開発を実行に移すにあたっては、電源開発によって木曽御料林からの木曽川による木材流送が不可能になるため、御料林を管理する帝室林野管理局との交渉が必要であった。桃介は御料林問題につき逓信大臣を務めた経験がある後藤新平に協力を求めてその助力を得、さらに後藤の推薦で彼の秘書官であった増田次郎を交渉役とすることができた。交渉の末に御料林問題が解決し木曽川開発の見込みが立つと、名古屋電灯では電力の消化策として電気製鉄事業に着目し、電源開発部門と合わせて独立させ、1918年(大正7年)9月8日木曽電気製鉄株式会社(後の木曽電気興業)を設立。新会社の木曽電気製鉄が木曽川や矢作川での電源開発を手がけ、その親会社の名古屋電灯は配電事業に特化するという体制とし、桃介は両社の社長を兼任した。翌1919年(大正8年)、木曽電気興業の手によって賤母(しずも)発電所(長野県)が完成、続いて同社は大桑発電所(同)の建設にも取り掛かった。 名古屋電灯の活動の一方で、他の地域での活動は漸次縮小した。社長であった佐世保電気は1913年11月九州電灯鉄道へ合併。松山電気軌道は競合会社伊予鉄道との合併を1913年12月にまとめたが株主総会で覆されたため社長の渡邊修ともども引責辞任した。1914年12月、西部合同瓦斯の社長職を九州電灯鉄道の経営にあたる松永安左エ門に譲って相談役へと退く。1916年(大正5年)には6月野田電気から、8月浜田電気から退き、翌1917年(大正6年)6月四国水力電気社長職も副社長であった景山甚右衛門に譲り退任した。 反対に名古屋を含む東海地方では事業活動を広げた。1908年から取締役を務める豊橋電気では1912年まで社長を務めたのち専務取締役の座にあったが、創業者三浦碧水の死去に伴い会社の実権を握って1918年社長に復帰した。名古屋鉄道(名鉄)の前身である愛知電気鉄道では、常務藍川清成に要請されて1914年8月社長に就任、1917年6月に退任するまで同社の経営再建に助力する。電力利用産業の起業にも取り組み、1916年8月名古屋電灯系列として電気製鋼所を設立して翌1917年9月より自ら社長を兼ね、1918年4月同社から派生し炭素電極を製造する東海電極製造(現・東海カーボン)が発足すると相談役に就いた。 さらに1919年9月8日、友人の三輪市太郎が持ち込んできた名古屋から豊橋へと至る電気鉄道の敷設計画に参加し、安田善次郎から金融面での後援を取り付けて資本金1000万円の東海道電気鉄道を設立、ここでも自ら社長に就任した。同社は東京・大阪間の電気鉄道敷設も視野に入れていたが、安田の死去で頓挫して1922年(大正11年)7月に愛知電気鉄道へと吸収された。
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