木曽川開発と用水問題の発生
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/17 17:02 UTC 版)
「今渡ダム」の記事における「木曽川開発と用水問題の発生」の解説
中部地方を流れる木曽川では、明治の末期から水力発電所の建設が始められた。まず名古屋電灯の手により1911年(明治44年)に八百津発電所が完成。1919年(大正8年)には名古屋電灯から分かれた木曽電気製鉄により上流側に賤母発電所が竣工した。木曽電気製鉄の後身大同電力によっても発電所建設が続けられ、1923年(大正12年)までに読書発電所など3つの発電所が新設されている。さらに1924年(大正13年)、日本で最初の本格的ダム式発電所である大井発電所(大井ダム)が完成した。 1924年8月、完成した大井ダムが貯水を始めると、木曽川ではある問題が発生する。当時、大井ダムの下流側には木津用水・宮田用水・佐屋川用水の3つの農業用水があった(1929年羽島用水が完成し4つとなる)が、渇水期にこれら農業用水での取水が困難になったのである。これは、深夜など発電が不要な時間帯にダムへと貯水し、発電時にダムから放流する、というダムの流量調節に伴いダム下流側において毎日の流量変化が大きくなったことにより生じた。特に大量の取水をする宮田用水への影響が大きく、同用水の下流地帯では水不足を原因とする水争いが頻発したという。 翌1925年(大正14年)になっても各用水の取水地点における水位変動が大きいため、同じく水位変動による影響を受けていた犬山付近の川舟や漁業の組合とも共同して、木津・宮田・佐屋川の各用水組合は愛知県土木課長の立会いの下、大同電力との交渉を開始する。その結果、取水設備の改修費を会社側が半額負担すること、設備を改修しても灌漑に支障が出る場合はダムの放水を調整して支障を来たさぬよう努めることが取り決められた。しかしその後も灌漑期の水位変動や工事費の負担をめぐる用水組合と大同電力とのトラブルは続き、1930年(昭和5年)には木津・宮田両用水における工事費の負担を大同電力が拒否したため、2つの用水組合と会社側の紛争が再燃、組合側がダムの流量調節の停止を命令するよう政府などへ陳情する事態となった。愛知県が調停役とする用水組合と大同電力との協議の結果、費用負担は従前通りとすること、灌漑期間中は常に水位調節に腐心すべきこと、という組合側の主張を会社側が認め、この紛争は沈静化した。
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