水論
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水論(すいろん、みずろん)とは、灌漑用水の田への分配(分水)をめぐる紛争[1][2]。境相論(論所)を指すこともある[3]。水争い[1][2][4]、水喧嘩[4]、水騒動、水紛争ともいう。
注釈
- ^ 「水問答」「水合戦」と呼ばれていた[4]。
- ^ 1592年、摂津国、豊臣秀吉の令。1609年、幕府令。など[6]。
- ^ 用水組合の各村落の費用負担は石高に応じて割り振られること(石高割)が多かった(他に、村割、灌漑面積割)[8]。 ただし、用水の開発に特別の貢献があった村落の特権や、用水組合に後から加わった村落の劣後など、力関係による格差も存在した[9]。
- ^ 川の同じ側にある場合の付け替え争いは少なかった[10]。
出典
- ^ a b c d “水論とは コトバンク”. 2017年4月13日閲覧。
- ^ a b c “水論とは - 歴史民俗用語辞典”. 2017年4月13日閲覧。
- ^ “境相論とは 世界大百科事典 コトバンク”. 2017年4月13日閲覧。
- ^ a b c “水争いとは コトバンク”. 2017年4月13日閲覧。
- ^ 渡辺 2014, pp. 51–68.
- ^ 渡辺 2014, pp. 60–64.
- ^ 渡辺 2014, pp. 64–66.
- ^ 渡辺 2014, pp. 51–52.
- ^ 渡辺 2014, pp. 54–55.
- ^ 渡辺 2014, p. 59.
- ^ 渡辺 2014, pp. 55–59.
- ^ 片山 1998, pp. 65–156.
- ^ 渡辺 2014, pp. 3–4.
- ^ 渡辺 2014, pp. 55–56.
- ^ “UNESCO - Irrigators’ tribunals of the Spanish Mediterranean coast: the Council of Wise Men of the plain of Murcia and the Water Tribunal of the plain of Valencia” (英語). ich.unesco.org. 2023年6月6日閲覧。
- 1 水論とは
- 2 水論の概要
水争い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/30 06:11 UTC 版)
1947年(昭和22年)8月、降水量不足で用水の流量が極端に低下した。これに対して下流側の大和田町、志木町の農民が、上流側の小平町、清瀬村側の農民が用水のせき止めを行っているためとして反発。地域の水利用組合の交渉により調停が試みられるも決裂し、対立が続いた。
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水争い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/27 02:59 UTC 版)
これらの要因のため、水が慢性的に足りなくなり、明治後期から昭和にかけて上流地区の集落・井手組合と激しい水利権争いを起こした。水争いの問題解消のため出来たのが笹原にある「円形分水」である。通潤用水は、歴史的にみると矢部手永の威光で水を得たものである。やがて矢部手永の最高責任者であった布田が神格化され、布田神社が建立された。今日、トイレなどが整備され見学施設となっている。
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水争い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/02 22:29 UTC 版)
「デイド郡 (ジョージア州)」の記事における「水争い」の解説
デイド郡は、テネシー川流域開発公社の造ったニッカジャック・ダムでできたニッカジャック湖の直ぐ南にある。ラニア湖やアラトゥーナ湖の水を使っているアトランタ市は、その水量を補うためにニッカジャック湖の水も望んだ。ジョージア州の政治家は、テネシー・ジョージア州境が欠陥のあった1818年の測量に基づいて引かれており、ジョージア州の北州境をテネシー川の直ぐ手前にしてしまったので、これを変えたいと望んだ。
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