水利用
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 14:52 UTC 版)
閘門を使うことの主な問題は、1回の満水-空水のサイクルを繰り返すごとに、閘室1杯分の水(何万ガロンから何十万ガロンにもなる)が下流に放流されることである。簡単に言えば、ちょうど船に適した大きさの閘門を持つ運河で、船が最上流部から最下流部へ航行する際には、その船旅に閘室1杯分の水を伴っていることになる。反対方向へ航行する船もまた、閘室1杯分の水を上流側から下流側へ移動させる。運河が干上がってしまうのを防ぐためには、水が下流に放流されていく速度で常に水を運河最上流部へ補給できることを何らかの手段で保証しなくてはならない。これは当然ながら、河川水運に比べると分水界を越える人工的な運河により大きな問題となる。
※この「水利用」の解説は、「閘門」の解説の一部です。
「水利用」を含む「閘門」の記事については、「閘門」の概要を参照ください。
水利用
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/05 04:19 UTC 版)
「別府川 (鹿児島県)」の記事における「水利用」の解説
古くから別府川の水を利用した灌漑が広く行われている。山下井堰、山崎井堰、最上井堰などが設置されて、取水を行っている。 上名用水路は、水路の長さ1km、灌漑面積23ヘクタールで、いつ頃誰が建設したのかは不明であるが、伝承によれば和銅年間(708年 - 715年)であるという。 中津野用水路は、山田川の山下井堰から取水して長さ4km、9つのトンネルを設け、山田、中川原、中津野の合計66ヘクタールに灌漑している。1752年(宝暦2年)に完成したもので、建設を発案した水口ゆきえの悲話がある。 山崎用水路は、中津野用水路と同じあたりから取水して、寺脇、西田、大山、深水、三拾町まで流れ、灌漑面積は30ヘクタールである。建設年代は不明であるが、最古の文献資料は1276年(建治2年)の「大隅国在庁石築地役配符」である。 寺師用水路は、支流の寺師川から取水し、寺師、永瀬、増田に渡る全長5.7km、灌漑面積42ヘクタールの用水路で、これも建設年代は不明であるが、1791年(寛政3年)の架橋記念碑の記述から、この時期ではないかと考えられている。 姶良町の上水道は、一時期別府川からの取水も検討されたが、水利権等の問題により断念され、現在は全量を地下水によって給水している。 支流の前郷川には九州電力の設置した前郷川発電所(最大出力120 kW、1924年(大正13年)8月稼動)があり、水力発電にも利用されている。
※この「水利用」の解説は、「別府川 (鹿児島県)」の解説の一部です。
「水利用」を含む「別府川 (鹿児島県)」の記事については、「別府川 (鹿児島県)」の概要を参照ください。
水利用
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/11/19 20:22 UTC 版)
インド政府はベロニアの町を水害から守るために1975年以前に不透過水制を建設した。共同河川委員会はそれ以来川に不透過水制を建設しないように両国を抑えている。バングラデシュは1986年にムフリ川灌漑計画によって20の門扉を有する水門を建設、ベンガル湾から流れ込んでくる塩水を制御して灌漑を行う事が出来るようになった。ムフリ川がフェニ川に合流する地点にはこの工事で出来た貯水池があり、この貯水池によって灌漑が行われている。この計画が実行された事によって内水面漁業が発展し、海水の上流域への浸入やサイクロンによる高潮被害を防ぐ事が出来るようになった。
※この「水利用」の解説は、「ムフリ川」の解説の一部です。
「水利用」を含む「ムフリ川」の記事については、「ムフリ川」の概要を参照ください。
水利用
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 17:35 UTC 版)
六角川の中下流域は水田地帯だが、塩水が混じる感潮区間が長いため河川からの取水が難しく、概ね大日堰より下流では六角川からの取水は行わず(六角川は排水先とされた)、ため池や堀(クリーク)、「高畝うち」、地下水などを水源としてきた。 中流の北方町大渡にある永池堤(永池の堤)は江戸初期に築造された上・中・下と三段のため池で、白石平野(白石町)北部の農業用水として使用されている。当時、堤体には水を通さない粘土を突き固めた「ハガネ」を芯として堤体を強化する工夫が施されていた。現代になって容量増と補強が行われたが、同じ場所で稼働している。 江戸初期、本川平野部では最上流にあたる現在の武雄市橘町では、佐賀藩の成富兵庫茂安の手により大日堰の建設と三法潟の開発が行われた。この地域は低地だが感潮域であるため六角川からの取水ができなかった。塩分を含む水の遡上を堰により受け止め真水を確保するとともに、両岸に水路と樋門を設け利水・治水を行った。 戦後はポンプによる揚水技術が急速に普及、水量を求めて深井戸を掘り、くみ上げて農業用水を補うことが一般的となった。その弊害として地下水位の低下を招き、軟弱な粘土層が分布する白石平野の広範囲で昭和30年代後半から地盤沈下が問題となった。対策として県が井戸等の地下水取水規制を行うが、代替水源の確保が課題となった。六角川河口堰の利用は難航したため、1973年(昭和48年)着工の嘉瀬川ダム(佐賀市富士町、嘉瀬川上流)の利用に切り替えられた。しかしこのダムも移転交渉等が長引き2012年(平成24年)にようやく完成となる。 この間、嘉瀬川と筑後川を結び用水補給などを行う佐賀導水事業が進められ、渇水時も安定した水量を追加確保した嘉瀬川を水源とする佐賀西部広域水道が2001年(平成13年)に開始、六角川流域の全6市町のほか2市町に上水道を供給する。また嘉瀬川の川上頭首工で取水し白石平野まで農業用水を融通する佐賀西部導水路が建設され、末端の用排水路の整備も行われた。ダムが完成した2012年からは農業用水も嘉瀬川からの送水に転換した。これにより地下水の取水量は大幅に減少し、沈下は沈静化している。 旧武雄市では、武雄町の八並地区で1934年(昭和9年)それまでの井戸に代えて川良僧庵川から取水を開始、その後供給地域を広げ、踊瀬ダム(1958年(昭和33年)完成、松浦川水系鳥海川)、渕の尾ダム(1973年(昭和48年)完成)と水源を開発した。しかし、1973年8月には渇水により30日間の断水が発生するなど水源確保が課題で、渕の尾ダムの嵩上げ、本部ダム(1988年(昭和63年)完成、松浦川水系川古川)や矢筈ダム(1994年(平成6年)完成)の開発により安定化を図った。六角川最上流に位置する矢筈ダムの水はいったん渕ノ尾ダム(武雄川)と踊瀬ダム(松浦川水系鳥海川)に送り貯留、渕ノ尾浄水場を通じて上水道・工業用水道の水源として利用する。ただ水量が少なく不安定なため、佐賀西部広域水道の竣工後はこちらの補給を受けている。 また、本川流域の江北・大町と武雄市北方町にて工業用水を供給する杵島工業用水道が1978年(昭和53年)に開始しているが、こちらも嘉瀬川から取水している。
※この「水利用」の解説は、「六角川」の解説の一部です。
「水利用」を含む「六角川」の記事については、「六角川」の概要を参照ください。
- 水利用のページへのリンク