1975年以前
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/14 08:49 UTC 版)
兄にインターヒカリ(平地競走5勝、障害競走14勝)、ハヤグリーバ(平地8勝、障害1勝)、姉にそれぞれ平地を3勝したスプリングドール、フォエバー、カローラターフをもつバローネターフは厩舎からなかなか期待を受けており、1974年9月8日に東京競馬場でデビューしたが、勝ったイーデンアローから1.5秒離された8着に敗れた。その後も7、5、6、9、12着と負け続けて3歳シーズンを終え、さらに両前足に裂蹄を起こすという状況であり、翌年より矢野幸夫調教師の婿養子である矢野進が調教師として独立した際にバローネターフも転厩した。 その血統から障害入りを早くから検討されており、裂蹄による休養があけた4歳の4月にすでに障害練習を行っていた。そして5月休み明け初戦こそ逃げて2着に粘ったが、その後6月に12頭立ての最下位に敗れると翌月には障害に転向した。初戦となった新潟の障害未出走未勝利では11頭立ての8番人気という評価であり、レースでも襷を越えて大きく後方に置かれていたが、バローネターフは直線だけで先頭集団をごぼう抜きにして勝利を挙げた。その後、新潟で300万以下を3戦目で勝利してオープン入り。中山でのオープン初戦をすでに障害で5勝を挙げていたサクラオンリーから1馬身1/4差の2着と好走すると、続く東京での2戦をいずれもメジロオーサカを破って連勝。バローネターフは4歳にして中山大障害(秋)に出走することになった。 矢野進厩舎としてもこれが初めての重賞挑戦となり、レース1ヶ月前からバローネターフに毎日大竹柵、大土塁を見せるように指示。万全を期して中山大障害に向かった。大障害は4連覇を狙うグランドマーチスが単勝1.1倍の圧倒的人気であり、バローネターフは単勝7.2倍の離れた2番人気に支持された。レースではバローネターフは中段に位置し、3つ目の土塁でゴールドシャトーの落馬のあおりを受けたが、兄のインターヒカリが2回挑戦していずれも転倒した大竹柵は無難に飛越。直線では外から追い込んだがグランドマーチスには敵わず5馬身差の2着だった。
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