3歳シーズン(1957年)
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「バリーモス」の記事における「3歳シーズン(1957年)」の解説
バリーモスは3歳緒戦のマドリードフリーハンデキャップ(カラ7ハロン)で着外に敗れたが、距離が不足しているのは明らかだった。その後良化を示し、レパーズタウンで1+1⁄2マイルのトリゴーステークス(Trigo Stakes)に優勝した。この勝利はエプソムダービーでいくらかの支持を集め、バリーモスのオッズは100対1(101倍)から33対1(34倍)まで低下した。 ダービーの調整過程でバリーモスは脚に軽い怪我を負い、直前の調整は中断を余儀なくされた。オブライエンは本調子には無いと報告し、馬主のマクシャインはこのレースのための渡英を取り止めた。レースは2,000ギニーを勝ち、6対4(2.5倍)と無敗で三冠を制したバーラム以来の人気を集めたレスター・ピゴット騎乗のクレペロ(英語版) Crepello (GB) が好タイムで優勝した。しかしバリーモス(33対1(34倍))も予想を覆し、クレペロに1馬身半差の2着に好走した。3着にはパイプオブピース Pipe of Peace (GB) (100対8(13.5倍))が入り、2番人気のフランス調教馬プリンスタジ Prince Taj (FR) は15馬身以上の出遅れがたたり着外に敗れた。 次のレースはカラのアイリッシュダービーで、2着ヒンドゥーフェスティヴァル Hindu Festival (IRE) 以下に楽勝した。その後は休養にあて、8月にヨークのグレートヴォルティジュールステークスでオッズオンの1番人気となったが、ブリオッシュ Brioche (IRE) に簡単に敗れた。この敗戦の有り得る説明として、柔らかい馬場と調整不足に対処できないことが指摘された。 ドンカスターのセントレジャーは、15頭の相手に対して8対1(9倍)のオッズでスタートした。豪雨で地面が柔らかくなり、バリーモスのオッズは5対1(6倍)から上昇していたが、コートハーウェル Court Harwell (GB) から1馬身差で勝利し、ブリオッシュは3着だった。騎乗していたトミー・バーンズ騎手は、「私の馬は前半キャンターで走っていただけで、非常に自由に走れた。5番手くらいで回って直線に入り―ゴールからおよそ5ハロン手前の―その瞬間から、結果については何の疑いも抱かなかった。2ハロン手前で先頭に立ったときには、レースはほとんど終わったことが分かった。」と語った。オブライエン調教師はイギリスクラシック初勝利で、クレペロは8月に故障を発生し既に引退していた。 このシーズン最後のレースは10月、ニューマーケットのチャンピオンステークスとなったが、レース前パドックで激しく暴れ、柱にぶつかって怪我をしたようだった。バリーモスは見せ場をつくれず、この年の1,000ギニー、ムーラン・ド・ロンシャン賞を制していたフランス牝馬ロゼロワイヤル Rose Royale (GB) の着外に敗れた。これによりワシントンDCインターナショナルへの出走計画は断念された。
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3歳シーズン(1953年)
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「ピンザ」の記事における「3歳シーズン(1953年)」の解説
1953年初め、ピンザは運動中に砂利道で転倒した。怪我の程度そのものは軽かったものの、回復に時間を要する脚の感染症になり、2,000ギニーに向けての運動が不可能となった。2,000ギニーは2対1(3倍)で一番人気のニアルーラが4馬身差で楽勝した。
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