水利開発
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/29 15:11 UTC 版)
「福山 (城下町)」も参照 福山城及び城下町を整備するにあたり勝成は、家老中山勝時を惣奉行、小場利之らを土工奉行に任命し、自らもその陣頭指揮に当たったと伝えられている。また水道に関しては神谷治部が工事を指揮していたとされる。 当初、芦田川本流を城の北から東へ流す計画が立てられ、本庄村艮の鼻から川筋を曲げて城の北側に流そうとしていたが、元和6年(1620年)大洪水が起こり建設途中の城下が大きな被害を受けた。 そこで計画が変更され、芦田川はそのまま城の西側へ流れるようにし、代わりに導水路を城の北から東へ流すことになった。この「吉津川」と呼ばれた導水路は、芦田川と高屋川の合流地点下流側の高崎で取水し、芦田川に沿って分流路を設け、本庄村二股にあった上井出(農業用水のための堰)を超え東進、蓮池から城山の北側を流れ、城の南東部を開削した入川から海(現在の福山港)へと流れるルートとなった。そして蓮池から城の外堀へ水が供給され、そして上水道が整備されていった。また上井手から分流した水は、丘陵際に沿って東進し深津・吉津・奈良津・引野の灌漑用水となり開発を促進させた。 元和8年(1622年)、福山城完成、そして城下町も福山水道も完成した。江戸時代には尾張藩の御用水・水戸藩の笠原水道とともに天下に名立たる水道と謳われている。
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