事業の多目的化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/02/11 01:15 UTC 版)
「農林水産省直轄ダム」の記事における「事業の多目的化」の解説
津風呂ダム(津風呂川・奈良県)。「大和豊年米食わず」とまで揶揄された大和盆地の慢性的な水不足を解消した。 宇連ダム(宇連川・愛知県)。水資源開発公団に管理が移管された豊川用水の水源。愛知県東三河地域の水がめでもある多目的ダム。 農林水産省直轄ダムの目的は基本的に灌漑用水の供給である。しかし実際には治水目的や上水道、工業用水道、水力発電といった灌漑以外の利水目的を有するダムも多く建設されている。これらは建設省や都道府県といった河川管理者が施工主体である河川総合開発事業と連携していることが多いためである。 その端緒となったのは1950年(昭和25年)に制定された国土総合開発法である。戦後大きな問題となっていたのは食糧不足だけではなく連年の台風や集中豪雨に伴う水害の頻発、発電所の空襲や施設劣化に伴う電力不足による停電があった。何れも戦後の国土復興や治安上に支障を来たすため、当時経済政策全般を統括していた内閣経済安定本部は物部長穂が1926年(大正15年)に提唱した河水統制計画案を発展させた河川総合開発事業を強力に推進していた。そして第3次吉田内閣はこの法律を施行することで河川総合開発を広域・大規模に実施し治水と利水を総合的・系統的に開発、経済復興の礎にしようとしたのである。国土総合開発法施行後全国22地域を特定地域に指定して重点的な開発が行われた。ほとんどの地域で治水とかんがい、水力発電を組み合わせた開発が行われ、農林省もこの開発計画に参画するようになったが、農林省が主体となった事業として吉野熊野特定地域総合開発計画がある。これは300年来水不足に悩まされた大和盆地と和歌山平野に農業用水を供給するため、熊野川と紀の川を導水路で連結して水の融通を行い、旱魃に苦しんだ同地域の農地整備を行う事業計画「十津川・紀の川総合開発計画」が発端であったが、これに建設省と電源開発が参加し治水と水力発電を新規目的に加えた広域多目的河川開発事業として拡大した。これにより建設された根幹施設として大迫ダム(紀の川)・津風呂ダム(津風呂川)・山田ダム(野田原川)・猿谷ダム(熊野川)があり、事業完成により同地域は慢性的な水不足から解放された。 高度経済成長期を迎えると、今度は人口増加に伴う上水道需要および工業地帯拡張による工業用水道需要が急増した。こうした背景から建設省は利根川や淀川など大都市圏を流れる大河川を対象に総合的な水資源開発を行うため水資源開発公団の設置を企図した。しかし農林省は当時管掌していた愛知用水公団を拡充する「水利開発管理公団」の設置を目論み、上水道事業を管掌する厚生省と工業用水道事業を管掌する通商産業省も加わり、主導権を巡って各省庁間の角逐が激しくなった。その後自由民主党や経済企画庁の調整もあり1961年(昭和36年)水資源開発公団法と水資源開発促進法が成立、翌年水資源開発公団が発足した。しかし法案可決の際日本社会党が賛成条件として挙げた付帯決議の中に「愛知用水公団は、可及的速やかに水資源開発公団へ統合する」との文言があり、農林省は土地改良事業遂行の観点からこれに抵抗した。だが最終的には1968年(昭和43年)に愛知用水公団は統合され、公団が所管していた愛知用水・豊川用水および直轄ダムであった宇連ダムなどは水資源開発公団に管理が移管された。その後は水資源開発公団の農業用水事業を管掌する主務官庁として引き続き公団が実施する灌漑事業を監督し、それは特殊法人改革によって独立行政法人水資源機構と改組した現在も変わらない。 この他、個々の直轄ダムについても電力会社や各都道府県企業局の発電事業が参画したダム(大夕張ダムなど)や上水道、工業用水道目的が付加されたダム(三川ダムなど)がこの時期に多く建設され、多目的ダム化されるに至った。
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