水利権獲得と発電所建設とは? わかりやすく解説

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水利権獲得と発電所建設

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/08 03:25 UTC 版)

大桑発電所」の記事における「水利権獲得と発電所建設」の解説

大桑発電所付近に最初に水利権獲得したのは関清英を代表とするグループで、その許可は1907年明治40年4月さかのぼる。この水利権は翌1908年明治41年3月名古屋電力当時木曽川八百津発電所建設中)へと譲渡され、さらに合併によって1910年明治43年10月明治・大正期における名古屋市電力会社名古屋電灯引き継がれた。「駒ヶ根地点呼ばれたこの水利権は、木曽川のうち福島町(現・木曽町)から駒ヶ根村(現・上松町)を経て大桑村へ至る区間引用区間であったが、1910年7月計画見直しで「駒ヶ根」と「大桑」の2地点分割された。 水利権の獲得程度に留まってい木曽川中流部開発計画具体化されるのは、後年電力王」と呼ばれた実業家福澤桃介名古屋電灯経営掌握してからである。「大桑地点については、まず1915年大正4年10月使用水量を既許可500立方毎秒(13.91立方メートル毎秒)から1,000立方毎秒(27.83立方メートル毎秒)へと増加する申請を行う。さらに翌1916年大正5年6月には引用区間見直して大桑第二地点へと改め設計変更出願した。そして1917年大正6年11月使用水量1,000立方毎秒にて「大桑第二地点水利権許可得た水利権許可後、1918年大正7年9月名古屋電灯から開発部門木曽電気製鉄(後の木曽電気興業)として独立したため、「大桑第二地点水利権同社へと移されている。さらに1921年大正10年2月木曽電気興業合併によって大同電力となったこの間、「大桑第二地点大桑発電所として開発実行移され1918年10月着工大同電力発足後の1921年3月本工事竣工した。主要機器はいずれアメリカ合衆国からの輸入品であり、メーカー水車がアリス・チャルマーズ(英語版)、発電機変圧器ウェスティングハウス・エレクトリック追って同年8月名古屋方面既設送電線連絡する送電線竣工し発電所出力1万1,000キロワットにて送電開始した

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水利権獲得と発電所建設

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/08 03:26 UTC 版)

須原発電所 (長野県)」の記事における「水利権獲得と発電所建設」の解説

須原発電所付近に最初に水利権獲得したのは関清英を代表とするグループで、その許可は1907年明治40年4月さかのぼる。この水利権は翌1908年明治41年3月名古屋電力当時木曽川八百津発電所建設中)へと譲渡され、さらに合併によって1910年明治43年10月明治・大正期における名古屋市電力会社名古屋電灯引き継がれた。「駒ヶ根地点呼ばれたこの水利権は、木曽川のうち福島町(現・木曽町)から駒ヶ根村(現・上松町)を経て大桑村へ至る区間引用区間であったが、1910年7月計画見直しで「駒ヶ根」と「大桑」の2地点分割された。 水利権の獲得程度に留まってい木曽川中流部開発計画具体化されるのは、後年電力王」と呼ばれた実業家福澤桃介名古屋電灯経営掌握してからである。「駒ヶ根地点については、まず1915年大正4年10月使用水量を既許可500立方毎秒(13.91立方メートル毎秒)から800立方毎秒(22.26立方メートル毎秒)へと増加する申請を行う。さらに翌1916年大正5年6月には引用区間見直して駒ヶ根地点を「大桑第一地点へと改め設計変更出願した。そして1917年大正6年11月使用水量800立方毎秒にて「大桑第一地点水利権許可得た水利権許可後、1918年大正7年9月名古屋電灯から開発部門木曽電気製鉄(後の木曽電気興業)として独立したため、「大桑第一地点水利権同社へと移されている。さらに1921年大正10年2月木曽電気興業合併によって大同電力となった大同電力による実施計画策定過程で、「大桑第一地点水路長くなりすぎるとして上流の「駒ヶ根地点(後に細分化され「寝覚」「桃山地点)と下流の「須原地点再分割された。 この「須原地点開発1921年大正10年)に実行移され須原発電所として翌1922年大正11年7月竣工、運転を開始した当初使用水量は1,200立方毎秒(33.39立方メートル毎秒)で、発電所出力は9,200キロワット。スイス・エッシャーウイス製水車アメリカ合衆国ウェスティングハウス・エレクトリック発電機備えた。また送電線竣工あわせて名古屋方面への路線完成、さらに翌1923年大正12年12月には構内新設須原変電所から大阪へと至る大阪送電線も竣工した

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水利権獲得と発電所建設

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/23 15:00 UTC 版)

読書発電所」の記事における「水利権獲得と発電所建設」の解説

読書発電所は、明治・大正期における愛知県名古屋市電力会社名古屋電灯によって開発計画された。同社現在の読書発電所周辺水利権得たのは1908年明治41年5月さかのぼる。この段階では水利権の獲得程度とどまったが、名古屋電灯後年電力王」と呼ばれた実業家福澤桃介乗り込む開発計画具体化進んだ1915年大正4年10月名古屋電灯長野県対し使用水量を既許可900立方毎秒(25.04立方メートル毎秒)から1,200立方毎秒(33.39立方メートル毎秒)へと増加する申請を行う。さらに翌1916年大正5年6月には、読書村(現・南木曽町読書)から田立村(現・南木曽町田立)にかけての引用区間を、「読書」と「賤母」の2地点へと分割変更するという計画見直し申請したこのうち読書地点については、1917年大正6年11月水利権名古屋電灯許可された。 水利権許可後、1918年大正7年)に名古屋電灯から開発部門木曽電気製鉄(後の木曽電気興業)として独立したため、読書地点水利権同社へと移されている。さらに1921年大正10年)、木曽電気興業合併によって大同電力となった大同電力発足後に読書地点開発着手され1921年11月から準備工事が、翌1922年大正11年3月からは本工事始まった工事中1922年6月木曽川本川からの取水増加し支流阿寺川柿其川からも新規に取水して使用水量を1,600立方毎秒(44.52立方メートル毎秒)へと引き上げ許可得ている。 1923年大正12年12月読書発電所竣工し24日使用認可得て運転を開始した当初発電所出力は4700キロワットで、翌年大井発電所出力4万2,900キロワット)が完成するまでの短期間ではあるが当時日本最大水力発電所であった。主要機器欧米からの輸入品で、水車はスイス・エッシャーウイス製、発電機アメリカ合衆国ウェスティングハウス・エレクトリック製のものを導入送電線木曽川筋から大阪府へと至る「大阪送電線」が接続し読書発電所発生電力須原大井発電所発生電力とともに関西地方へと送電された。

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