水利権獲得と発電所建設
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「大桑発電所」の記事における「水利権獲得と発電所建設」の解説
大桑発電所付近にて最初に水利権を獲得したのは関清英を代表とするグループで、その許可は1907年(明治40年)4月にさかのぼる。この水利権は翌1908年(明治41年)3月に名古屋電力(当時木曽川八百津発電所を建設中)へと譲渡され、さらに合併によって1910年(明治43年)10月、明治・大正期における名古屋市の電力会社名古屋電灯に引き継がれた。「駒ヶ根」地点と呼ばれたこの水利権は、木曽川のうち福島町(現・木曽町)から駒ヶ根村(現・上松町)を経て大桑村へ至る区間が引用区間であったが、1910年7月の計画見直しで「駒ヶ根」と「大桑」の2地点に分割された。 水利権の獲得程度に留まっていた木曽川中流部の開発計画が具体化されるのは、後年「電力王」と呼ばれた実業家福澤桃介が名古屋電灯の経営を掌握してからである。「大桑」地点については、まず1915年(大正4年)10月、使用水量を既許可の500立方尺毎秒(13.91立方メートル毎秒)から1,000立方尺毎秒(27.83立方メートル毎秒)へと増加する申請を行う。さらに翌1916年(大正5年)6月には引用区間を見直して「大桑第二」地点へと改め、設計変更を出願した。そして1917年(大正6年)11月、使用水量1,000立方尺毎秒にて「大桑第二」地点の水利権許可を得た。 水利権の許可後、1918年(大正7年)9月に名古屋電灯から開発部門が木曽電気製鉄(後の木曽電気興業)として独立したため、「大桑第二」地点の水利権も同社へと移されている。さらに1921年(大正10年)2月、木曽電気興業は合併によって大同電力となった。この間、「大桑第二」地点は大桑発電所として開発が実行に移され、1918年10月に着工、大同電力発足後の1921年3月に本工事が竣工した。主要機器はいずれもアメリカ合衆国からの輸入品であり、メーカーは水車がアリス・チャルマーズ(英語版)、発電機・変圧器がウェスティングハウス・エレクトリック。追って同年8月に名古屋方面既設送電線に連絡する送電線が竣工し、発電所出力1万1,000キロワットにて送電を開始した。
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水利権獲得と発電所建設
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「須原発電所 (長野県)」の記事における「水利権獲得と発電所建設」の解説
須原発電所付近にて最初に水利権を獲得したのは関清英を代表とするグループで、その許可は1907年(明治40年)4月にさかのぼる。この水利権は翌1908年(明治41年)3月に名古屋電力(当時木曽川八百津発電所を建設中)へと譲渡され、さらに合併によって1910年(明治43年)10月、明治・大正期における名古屋市の電力会社名古屋電灯に引き継がれた。「駒ヶ根」地点と呼ばれたこの水利権は、木曽川のうち福島町(現・木曽町)から駒ヶ根村(現・上松町)を経て大桑村へ至る区間が引用区間であったが、1910年7月の計画見直しで「駒ヶ根」と「大桑」の2地点に分割された。 水利権の獲得程度に留まっていた木曽川中流部の開発計画が具体化されるのは、後年「電力王」と呼ばれた実業家福澤桃介が名古屋電灯の経営を掌握してからである。「駒ヶ根」地点については、まず1915年(大正4年)10月、使用水量を既許可の500立方尺毎秒(13.91立方メートル毎秒)から800立方尺毎秒(22.26立方メートル毎秒)へと増加する申請を行う。さらに翌1916年(大正5年)6月には引用区間を見直して「駒ヶ根」地点を「大桑第一」地点へと改め、設計変更を出願した。そして1917年(大正6年)11月、使用水量800立方尺毎秒にて「大桑第一」地点の水利権許可を得た。 水利権の許可後、1918年(大正7年)9月に名古屋電灯から開発部門が木曽電気製鉄(後の木曽電気興業)として独立したため、「大桑第一」地点の水利権も同社へと移されている。さらに1921年(大正10年)2月、木曽電気興業は合併によって大同電力となった。大同電力による実施計画策定の過程で、「大桑第一」地点は水路が長くなりすぎるとして上流の「駒ヶ根」地点(後に細分化され「寝覚」「桃山」地点)と下流の「須原」地点に再分割された。 この「須原」地点の開発は1921年(大正10年)に実行に移され、須原発電所として翌1922年(大正11年)7月に竣工、運転を開始した。当初の使用水量は1,200立方尺毎秒(33.39立方メートル毎秒)で、発電所出力は9,200キロワット。スイス・エッシャーウイス製水車とアメリカ合衆国・ウェスティングハウス・エレクトリック製発電機を備えた。また送電線は竣工にあわせて名古屋方面への路線が完成、さらに翌1923年(大正12年)12月には構内に新設の須原変電所から大阪へと至る大阪送電線も竣工した。
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水利権獲得と発電所建設
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「読書発電所」の記事における「水利権獲得と発電所建設」の解説
読書発電所は、明治・大正期における愛知県名古屋市の電力会社名古屋電灯によって開発が計画された。同社が現在の読書発電所周辺に水利権を得たのは1908年(明治41年)5月にさかのぼる。この段階では水利権の獲得程度にとどまったが、名古屋電灯に後年「電力王」と呼ばれた実業家福澤桃介が乗り込むと開発計画の具体化が進んだ。 1915年(大正4年)10月、名古屋電灯は長野県に対し、使用水量を既許可の900立方尺毎秒(25.04立方メートル毎秒)から1,200立方尺毎秒(33.39立方メートル毎秒)へと増加する申請を行う。さらに翌1916年(大正5年)6月には、読書村(現・南木曽町読書)から田立村(現・南木曽町田立)にかけての引用区間を、「読書」と「賤母」の2地点へと分割・変更するという計画見直しも申請した。このうち読書地点については、1917年(大正6年)11月に水利権が名古屋電灯に許可された。 水利権の許可後、1918年(大正7年)に名古屋電灯から開発部門が木曽電気製鉄(後の木曽電気興業)として独立したため、読書地点の水利権も同社へと移されている。さらに1921年(大正10年)、木曽電気興業は合併によって大同電力となった。大同電力発足後に読書地点の開発が着手され、1921年11月から準備工事が、翌1922年(大正11年)3月からは本工事が始まった。工事中の1922年6月、木曽川本川からの取水を増加し支流阿寺川・柿其川からも新規に取水して使用水量を1,600立方尺毎秒(44.52立方メートル毎秒)へと引き上げる許可を得ている。 1923年(大正12年)12月、読書発電所は竣工し、24日に使用認可を得て運転を開始した。当初の発電所出力は4万700キロワットで、翌年に大井発電所(出力4万2,900キロワット)が完成するまでの短期間ではあるが当時日本で最大の水力発電所であった。主要機器は欧米からの輸入品で、水車はスイス・エッシャーウイス製、発電機はアメリカ合衆国のウェスティングハウス・エレクトリック製のものを導入。送電線は木曽川筋から大阪府へと至る「大阪送電線」が接続し、読書発電所の発生電力は須原・大井両発電所の発生電力とともに関西地方へと送電された。
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