水利権争奪戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/17 15:54 UTC 版)
1891年(明治24年)の九州最初の電気事業である熊本電灯(後の熊本電気)開業から16年経った1907年(明治40年)8月、地元有志が設立した日向水力電気が開業したことで宮崎県においても電気事業がスタートした。1910年(明治43年)には延岡電気所(後の延岡電気)も開業し、宮崎県ではこれらの事業者により水力発電所の建設が進んだ。しかし発電所の数は多いもののその規模は小さく、1910年代までに建設された発電所はいずれも出力が500キロワット以下であった。 日向水力電気が開業した日露戦争後の時期から日本では長距離高圧送電技術が発達し、需要地から遠く離れた山間部でも電源開発が可能となって電気事業がその姿を変えつつあった。そうした中で早くから水力開発の適地として注目されたのが大分県を流れる筑後川上流部や山国川で、これらの河川では水利権の申請が相次いだ。申請者のグループを合同して1911年(明治44年)に設立されたのが九州水力電気(九水)で、1913年(大正2年)に九州最初の1万キロワット超の大容量水力発電所である女子畑発電所を建設、福岡県北部の北九州工業地帯へ電力供給を始めた。 1910年後半になると、豊富な水力資源を抱えるものの需要地から遠く開発が遅れていた宮崎県が次なる水力開発の適地と目されるようになる。当初進出を図ったのは電力会社ではなく工業会社で、まず福岡県大牟田市に工場を持つ三井系の電気化学工業(現・デンカ)が1916年(大正5年)11月に大淀川の、同年12月に五ヶ瀬川の水利権をそれぞれ申請した。次いで北九州に日米板硝子(現・日本板硝子)を設立した住友財閥が、ガラス工場の電源を確保するため当主住友吉左衛門名義で耳川の水利権を申請する。これらの動きが契機となって水利権獲得競争に火がつき、特に県北部の五ヶ瀬川には水利権申請が殺到、1917年(大正6年)に上記の九州水力電気と熊本県の熊本電気、1918年(大正7年)に三菱鉱業がそれぞれ水利権を申請し、さらに1919年(大正8年)には福岡県西部から長崎県にかけて供給する有力電力会社九州電灯鉄道(後の東邦電力)まで参加するに至った。 水利権の獲得競争が続く1918年9月、電気事業を所管する逓信省の長に福岡県出身の野田卯太郎が就任した。電力国営論者の野田は逓信大臣就任にあたり事業合同・電力統一を方針として打ち出していた。九州水力電気は野田へ働きかけ、取締役で野田と親しい麻生太吉を通じて五ヶ瀬川水利権を単独の会社に許可しないよう要請する。これもあって1920年(大正9年)9月に野田は、どの会社にも単独では許可を出さないので各派による合同会社を設立するように、との内意を明かした。一方、九州水力電気と対立関係にあった九州電灯鉄道は、実際の水利権許可を出す宮崎県に働きかけるという手段で対抗。同社は後述の県外送電反対運動に対する県知事広瀬直幹の立場に配慮し、県内の細島に製鋼所を新設する、県に土木費として50万円を寄付するといった条件を掲げ、県の説得に成功した。 宮崎県が九州電灯鉄道の要請を受け入れたことから、県の上申を受けた逓信省でも同社への水利権単独許可を認め、その上で新設の送電会社に競願各社を参加させる方向で決着させようとした。しかしこのことを耳にした九州水力電気の麻生太吉は野田や首相の原敬に抗議し、野田と親しい三井財閥の團琢磨を仲介者として同社相談役の和田豊治とともに逓信省の方針に抵抗した。結局1920年12月末、野田卯太郎逓信大臣は、五ヶ瀬川の水利権は単独許可せず、九州の電気事業合同を視野に入れた新会社「九州送電株式会社」を新設してこれに許可する方針を打ち出し、これに従って翌1921年(大正10年)1月に九州水力電気・九州電灯鉄道などにより九州送電創立発起委員会が立ち上げられた。
※この「水利権争奪戦」の解説は、「九州送電」の解説の一部です。
「水利権争奪戦」を含む「九州送電」の記事については、「九州送電」の概要を参照ください。
- 水利権争奪戦のページへのリンク