干ばつとの闘い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 08:38 UTC 版)
豊郷町は面積の半分以上が農地であり、稲作が古くからの主産業である。しかし水利に恵まれない土地で水争いが絶えず、犬上川からの用水(一の井)の最下流である四十九院・石畑・八目・八町・雨降野はとりわけ深刻であった。商業活動が活発であったのも、農業だけでは生活に困るという事情が背景にあった。明治中期以降は多くの村民が工場労働や商店勤務のため大阪・京都・東京などへ流出した。生活苦からの人口流出であったが、都会との接触は豊郷の近代文化普及を促すことにもなった。明治時代だけでも13回の干ばつが発生し、特に1909年(明治42年)の干ばつは大きな被害をもたらした。 1909年の大干ばつを受け、被害の大きかった四十九院と石畑の有志が中心となって1910年に「豊郷村耕地整理組合」を発足。村岸峰吉が中心的指導者となって、水利向上が模索され、イギリスのアーレン社から「コンケロル式離心動ポンプ」を購入し、1913年(大正2年)に日本初となる蒸気動力による揚水事業が竣工した。その後も水利開発が進められ、地下水利用の成功や農業協同組合の発展、犬上ダム(多賀町萱原)の建設などで水利問題は解消された。大正時代に竣工した揚水施設およびポンプは現在も保存されている。 「豊郷」という地名は米穀の豊穣を願ってつけられた瑞祥地名であり、ここにも干ばつとの苦闘の歴史が反映されている。
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