木曽川電力時代の動向
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1928年(昭和3年)9月、木曽川電力は西筑摩郡開田村(現・木曽町)の全域を供給区域に追加した。さらに翌1929年(昭和14年)11月には、黒川水力電気株式会社(資本金2万5000円)より事業を譲り受けた。黒川水力電気は木曽川電力の供給区域から外れていた新開村黒川集落に対し、小水力発電により供給していた事業者で、田中兼松の事業として1920年(大正9年)3月に開業し、1925年(大正14年)2月より会社経営となっていた。木曽川電力は開田村への供給に際し配電線が途中黒川集落を通過することから買収に及んだ。このように木曽川電力の事業は拡大はしたが、大同電気製鋼所が不況のため無配を継続したことから配当収入がなく経営は不振であった。なお1928年11月に福澤桃介に代わって寒川恒貞が第3代社長に就任し、1931年(昭和6年)7月には電気製鋼所時代に一時支配人を務めていた下出義雄が第4代社長となっている。 1931年の満州事変勃発以後、軍需拡大で大同電気製鋼所の経営が改善したため木曽川電力の経営も好転した。1935年(昭和10年)5月、上松町全域に供給区域を拡大。さらに同年9月には、奈川電灯株式会社(資本金5万円)より事業を譲り受けた。奈川電灯は西筑摩郡奈川村(後の南安曇郡奈川村、現・松本市)にて村の有志によって1922年6月25日に設立され、村内の黒川に小水力発電所を設けて翌1923年(大正12年)2月1日に開業した小事業者である。 1930年代後半には新規の水力開発も再開され、1937年(昭和12年)に日義発電所、翌1938年(昭和13年)には城山発電所が相次いで完成した。一方で1936年(昭和11年)に、大同電力寝覚発電所建設に伴い第二発電所(神戸発電所)を同社へと譲渡している。 こうして事業の拡大を進めたが、日中戦争勃発後の電力国家管理強化の流れの中で、太平洋戦争開戦後の1942年(昭和17年)8月5日、配電統制令に基づく中部配電(中部電力の前身)への電気供給事業設備出資命令が下った。出資すべきとされた事業設備の範囲は、杭ノ原・新開・日義・城山・黒川の5発電所と送電線3路線、変電所1か所、それに中部配電の配電区域内にある配電設備・需要者屋内設備・営業設備の一切である。10月1日付で中部配電への設備強制出資が実施に移され、事業を失った木曽川電力は同年12月1日付にて解散した。
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