木曽川開発事始め
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/07 23:35 UTC 版)
1889年(明治22年)に開業した名古屋市の電力会社名古屋電灯は、明治後期になると関東地方で大規模な水力発電事業が計画されているのを踏まえて、従来の火力発電からの脱却を検討するようになる。同社は初め木曽川に着目し測量の準備にかかるが、長良川の開発計画が提起されたため長良川開発に切り替え、1910年(明治43年)3月長良川発電所を完成させた。長良川での事業を進める傍ら、木曽川においても1906年(明治39年)9月、長野県西筑摩郡読書村(よみかき村、現・木曽郡南木曽町読書)から同郡田立村(現・南木曽町田立)に至る区間における水利権を長野県当局に申請、1908年(明治41年)5月に許可を取得した。名古屋電灯にとって最初の木曽川水利権であった。この許可地点を「田立水力」と称する。 ただし実際の木曽川開発は、名古屋電灯とは別の系統に属する「名古屋電力株式会社」という電力会社が先行した。同社は、1897年(明治30年)に最初の水利権申請が行われた岐阜県加茂郡八百津町付近における水力発電計画に端を発する。加茂郡を地盤に衆議院議員に当選していた実業家兼松煕が参画したのを機に計画が進展するとともに大規模化し、名古屋財界の奥田正香や東京の資本家を巻き込んで資本金500万円の名古屋電力の創設となった。1906年10月の会社設立に先立って同社は八百津町における水利権を同年6月に取得し、1年半後の1908年1月に八百津発電所を着工した。また日本電力発起人総代関清英が1907年(明治40年)4月に取得していた、長野県西筑摩郡福島町(現・木曽郡木曽町福島)から駒ヶ根村(現・上松町)を経て大桑村野尻にいたる「駒ヶ根水力」の水利権を1908年3月に譲り受けた。 名古屋電力が八百津発電所の建設を進める一方で、名古屋電灯では実業家福澤桃介による株式買収が進んでいた。福澤は1906年以降、九州の広滝水力電気や福博電気軌道(いずれも九州電灯鉄道の母体で、名古屋電灯とともに後年東邦電力となる)、愛知県の豊橋電気などに関与し電気事業界に投資を広げつつあった。名古屋電灯の買収は1909年初めより手をつけて翌年までに最大株主となり、1909年7月顧問となったのを皮切りに相談役、取締役と進んで1910年5月には常務取締役のポストを獲得するにいたり、短期間のうちに会社の首脳部に食い込んだ。名古屋電灯に乗り込んだ福澤は、八百津発電所の工事を進める名古屋電力との合併交渉を取りまとめ、同年10月合併を実現させた。こうして名古屋電灯は、八百津発電所の工事を引き継いで1911年(明治44年)11月に運転を開始させるとともに、駒ヶ根水力の水利権も継承し、福島・駒ヶ根・大桑・読書・田立の5町村にまたがる木曽川水利権の確保に成功した。
※この「木曽川開発事始め」の解説は、「木曽電気製鉄」の解説の一部です。
「木曽川開発事始め」を含む「木曽電気製鉄」の記事については、「木曽電気製鉄」の概要を参照ください。
- 木曽川開発事始めのページへのリンク