臨時建設部設置
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福澤桃介は名古屋電力との合併が成立した後名古屋電灯常務を辞任していたが、1913年(大正2年)1月に復帰。同年9月に社長であった加藤重三郎が辞任すると社長代理となり、翌1914年(大正13年)12月には後任社長に就任した。木曽電気製鉄の前身たる臨時建設部が名古屋電灯社内に設置されたのは、福澤が社長代理となった後の1914年2月1日のことである。当初は主任以下計4名という小さな組織であり、木曽川開発実施に向けた調査を担当した。 大正初期の名古屋電灯は、長良川・八百津両発電所の完成により供給力に余剰が生じ、大口需要家の獲得に奔走するという状況にあった。1914年10月には、福澤の発案により余剰電力5,000キロワットを利用した事業の検討を行っている。こうした供給過剰の状況は、1914年に第一次世界大戦が勃発して大戦景気を背景に電力需要が急増すると解消され、一転して供給力が不足するようになる。供給力確保のために火力発電所(熱田発電所、1915年9月運転開始)や八百津発電所の放水落差を活用した放水口発電所(1916年5月運転開始)の建設を緊急対策として実施したが、1917年(大正6年)上期時点では水力・火力あわせて約1万8,000キロワットの供給力をほとんど消化する状況で、実業界の活況からさらに3万キロワット近い新規需要が想定されていた。 こうした状況下にあった1916年(大正15年)2月、臨時建設部は部内に総務・電気・土木の3課を置いて組織を拡充し、水力開発を実行に移す。まず手がけたのは木曽川賤母発電所と矢作川串原仮発電所である。次いで木曽川大桑発電所の建設にも着手した。
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