りんじ‐きゃく【臨時客】
臨時客
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2010/08/24 21:17 UTC 版)
臨時客(りんじきゃく)とは、平安時代に年始に摂関・大臣の邸宅において、親王・公卿以下を迎えて行った饗宴のこと。通常は正月2日に行われた。
概要
類似の行事として、より公式の色が強い大臣大饗があり、作法なども共通している。だが、尊者を迎える請客の儀式や朝廷から蘇甘栗を下賜される儀式などが省かれ、藤氏長者が大饗では用いる朱器台盤も登場しない。また、饗宴の実施場所も大饗は母屋で行うのに対して臨時客は庇で行われる。これは臨時客は正月に臨時に訪問してきた来客に対応するという体裁で実施されるもので、毎年必ず実施されるものでもなかった。開始時期は不明だが、藤原師輔の『九暦』に天徳4年(960年)に正月2日・3日に兄実頼と自身が相次いで臨時客を開いた記事があるのが記録に残る最古の部類である。
平安時代後期になると、摂関家以外では行われなくなり、かつ大饗の代替としての要素が強くなった。中世になるとほとんど行われなくなり、室町時代に一条兼良が著した『公事根源』では既に廃絶していることが記されている。
参考文献
- 杉本一樹「臨時客」(『国史大辞典 14』(吉川弘文館、1993年)ISBN 978-4-642-00514-2)
- 山下克明「臨時客」(『平安時代史事典』(角川書店、1994年) ISBN 978-4-040-31700-7)
臨時客(摂関時代)
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大饗においても貴族社会の構造の変化が若干見られたが、それがもっとはっきりと判るのは、正月大饗の代わりに開催されるようになった臨時客である。そこでの招待客は大臣を含む公卿と殿上人であり、大饗のような太政官の官人ではない。その会場は対に移る。画像930がその会場である。 川本重雄の『古代文化』の論文の中に「土御門京極殿における饗宴儀式とその饗座」という表があるが、道長の土御門殿で行われた饗宴儀式は『権記』『小右記』『御堂関白記』に確認される範囲で17回あり、その内寝殿で行われたのは正月大饗と任大臣大饗の2回。他15回は対で行われ、招待客は公卿と殿上人、または公卿と殿上人と諸大夫である。立后の宴も対で行われるが、大治5年(1130)の例では東三条殿東対で行われ、初日の2月21日には母屋に公卿、南庇に四位侍従、中門廊に五位侍従、22日23日は南庇に公卿、南弘庇に殿上人、中門廊に諸大夫の席が設けられた。 川本重雄は大饗を律令制下の饗宴。臨時客など対で行われるものを摂関時代の饗宴としている。そして律令官制に基づく序列から公卿・殿上人・諸大夫の三階層の序列に変化した理由を佐藤進一が『日本の中世国家』で論じた「官司請負制」に求める。これは律令国家体制から王朝国家体制への変化を象徴する極めて大きな貴族社会の、そして在地までも含めた社会そのものの変容である。 その摂関時代の饗宴が対を会場としたのは「寝殿が律令時代の接客空間として官位の秩序によって穆着し、新しい秩序を受容できなかった」からで、「対屋こそが貴族住宅の中核になった」とする。そのような儀式饗宴会場としての対は東西どちらでも良いということではない。寝殿造には「ハレ」(晴)と「ケ」(褻)があり、「西礼の家」と「東礼の家」というものもある。川本重雄はこう書く。 王朝国家の接客空間として発展・整備された対とそれ以外の対の聞に規模・形式の上で明瞭な差が生まれ、前者がこれまで同様『対』あるいは『対屋』と呼ばれたのに対し,後者は『対代』『対代廊』の名で呼ばれるようになった。 平安京遷都の頃、つまり800年前後と推定される平安京右京一条三坊九町(山城高校遺跡)のような梁行の小さい東西の脇殿が、角度以外は寝殿と変わらないような規模にまで発展したのはおよそ藤原兼家・藤原道長の頃であろうという。藤原兼家は、東三条殿の西対を内裏の清涼殿風に設えて非難を受けたが、その「清涼殿風に」とは梁行五間である。それは寝殿の脇役であった脇殿が、新しい儀式空間である「対」と、そうでない脇殿、つまり「対代」や「対代廊」へ分化した時期でもあったとする。そして平安盛期における「正規寝殿造」の代表とされる寛仁2年(1018)の第二期土御門殿の段階から、寝殿造は左右非対称であったのではないかとする。 つまり先に引用した太田静六が「平安末期に多くみられるような対代ないし対代廊形式は、原則的には未だ用いられなかった」とした点は、「対」は未だ寝殿の脇役としての脇殿であり、新しい儀式空間である「対」とそうでない「対」つまり「対代」との差別化が生まれていなかったのだろうと云う。 なお、臨時客を対で行ったのは最盛期の話であって、大規模寝殿造が儀式用(ほぼ大饗用)のみに残る段階においては、摂関家と云えども日常住まう屋敷には対代廊しかなく、正月の臨時客を寝殿で開くこともあった。臨時客まで儀式用の東三条殿で行うようになったのは更にその後である。任大臣大饗にしろ臨時客にしろ、南庇を二行対座の儀式的饗宴場として用いるには、その幅は12尺必要である。 なおこの論争に関わる主要な論文は『寝殿造の空間と儀式』に収録されている。『古代文化』掲載の論文はそのまとめである。
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