末期の状況
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JR北海道 青函連絡船 25便 青森出航5分前から出航後約5分 (十和田丸にて、1988年2月10日) この音声や映像がうまく視聴できない場合は、Help:音声・動画の再生をご覧ください。 JR北海道 青函連絡船 25便 函館到着約15分前から到着まで (十和田丸にて、1988年2月10日) この音声や映像がうまく視聴できない場合は、Help:音声・動画の再生をご覧ください。 本州・北海道を結ぶ動脈の役割を担った青函連絡船は、貨物が1971年(昭和46年)に855万3033トン、旅客が1973年(昭和48年)に利用者498万5695人を数え、それぞれピークを迎えたが、航空機とフェリーの利用の増加、国鉄の鉄道利用客(旅客と荷主)の減少などの要因により、1974年(昭和49年)以後は利用が減少傾向に転じた。 1976年(昭和51年)には利用者数が400万人台を割り、1977年(昭和52年)は314万人と急減したため、1978年(昭和53年)にはグリーン自由席(124席)の約1/3のスペースを転用して「サロン海峡」という名の喫茶室、麻雀ができる娯楽室を設置。接客設備の改善とイメージアップを図ったが減少に歯止めはかからなかった。 「国鉄離れ」の加速で末期には閑散としていた。末期でも、青森ねぶた、函館港まつりの行われる旧盆、弘前・函館の観桜と時期が一致するゴールデンウィーク、年末年始などの最多客期には超満員となり、臨時便(臨時客扱)の運航や、乗船名簿に便名、または出航時刻をスタンプで押印した乗船名簿を配布する措置がとられることがあったが、通常期の利用状況は悪かった。 利用客数は最末期で年間に約200万人だった。しかし廃止が決定されてからの1年間は260万人に利用客が増えた。その多くが青函連絡船に別れを惜しんでやってきた者たちであり、それまで一度も連絡船に乗ったことのない者までが、「お別れ乗船」のために全国から訪れた。普段であれば冬季間は閑散としていたが、1988年(昭和63年)1月から3月の土日には、臨時客扱(臨時便)を行うほどの活況を呈した。
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末期の状況
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『電波少年に毛が生えた 最後の聖戦』終了後も放送が続けられたが、加入者が伸び悩み、2003年6月30日放送分で閉局。これで電波少年シリーズは一旦、11年間の幕を下ろした。また、電波少年的放送局のホームページは数日で閉鎖されている。 その後、日本テレビ編成部長(放送当時)の土屋敏男が第2日本テレビを任されると、一部に電波少年的放送局のコンセプトを取り入れるなど、CSからブロードバンドへ場所を変えながらもリベンジを行っていた。既にCS電波も第2日テレもないが、現在なら『電波少年W 〜あなたのテレビの記憶を集めた〜い!〜)』(WOWOW)に両者のコンセプトが一部に取り入れられている。 閉局後本チャンネルはその後パンチクラブとなり、更にFashion TV→FOXプラス→FOXムービー プレミアム→AXNミステリーとなり、現在に至る。
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