末期の古代オリンピック
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 18:22 UTC 版)
「古代オリンピック」の記事における「末期の古代オリンピック」の解説
しかし、この祖国での優勝者への過剰な褒章が、逆に大祭の腐敗を生んだ。祖国が優勝者に支払う報奨金は跳ね上がり、褒章欲しさに、不正を働くもの、審判を買収するものが出て、オリュンピア大祭は腐敗した。買収を行ったものと応じたものは多額の罰金が科せられただけでなく、その不正の深刻さに応じて肉体的懲罰や大会追放が言い渡された。この罰金を元に、オリュンピアに「ザーネス」と呼ばれる不正を象徴する見せしめのゼウス像が作られた が、ゼウス像の数は増える一方だったという。記録によれば最終的には16体までザーネスが建てられたとされるが、今日のオリュンピアに残されているのはその基部のみとなっている。 ローマがギリシア全土を征服し、属州に編入した後もオリュンピア祭は続けられたが、暴君として知られるローマ皇帝ネロは、自分が出場して勝者となるために第211回オリュンピア競技会の日程を本来行うべき65年から無理やり67年にずらしたのみならず、たとえ競技に敗れても優勝扱いにさえなっている。ネロの権力の濫用と不正に対する批判は強く、この祭時を変えさせてまで開催を強行した大祭は後に正式な大祭とされず、ネロの死後公式記録から抹消された。しかし変更された祭時は戻される事なくそのままで、最後の第293回大祭までこれは変わっていない。 また、自分の歌を披露するため、音楽競技を追加した。ネロは7種目で優勝したとされるが、その競技内容は悲惨で、特に音楽競技は聴くに堪えない劣悪なものだったという。 ネロの死後、この大会の存在そのものがエーリスの公式記録から抹殺された。このため、この大会をオリュンピア大会と認めない研究者もいる。 最末期、キリスト教が広まるにつれ、異教ローマ神の祭典であるオリュンピアは、しだいに廃れていった。313年、ローマはキリスト教を認め、392年、国教とした。この時キリスト教以外の宗教は禁じられた事によりオリュンピア大祭も禁じられる事になった。最後の第293回オリュンピア祭は、翌393年に開催され、これが古代オリンピック最後の年となった。この後、ローマの異教神殿破壊令によりオリュンピアは神域を破壊され長い歴史の幕を閉じている。この最後のオリンピックについては、記録が残っていない。記録に残る最後の古代オリンピックは、369年の第287回オリンピュア祭で、それも、拳闘の勝者のみが記録されている。このためこの回を最終回とする研究者もいた。 しかし、その後、1990年代になってから、オリュンピアで、末期の361年の第285回オリュンピア祭までの全競技の勝者を記録した青銅板が発掘された。それまでは、末期、キリスト教が広まってからのオリュンピアはエーリスとその近隣諸都市だけで細々と行われていたと考えられていたが、青銅板の最後の記録、361年までは、広くギリシア語圏内から競技者が参加していたことが判明した。この青銅板が後世の偽作であると疑う意見もあるが、証拠はなく、ひとまず、これが末期古代オリンピックに関する主流の見方になっている。
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