大同電力からの受電
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1918年4月、名古屋電灯臨時建設部が工事を進めていた串原仮発電所(出力2,000kW)が竣工した。この発電所は、矢作川での串原発電所建設中、大戦景気による需要急増に伴い設備納入を待つ余裕がなくなったため長良川発電所の予備設備一式を転用して急設された仮設発電所である。名古屋への送電設備として六郷村(現・名古屋市東区)に六郷変電所を、発電所から六郷変電所へ77kV送電線を架設し、どちらも同年6月に竣工させた。同年9月、前述の通り臨時建設部は名古屋電灯から分離されて木曽電気製鉄(後の大同電力)となった。 翌1919年7月、木曽川の賤母発電所が一部竣工し出力4,200kWで運転を始め、同年11月には全面竣工して出力1万2,600kWにより運転開始した。一部運転開始と同時に先の串原・六郷間77kV送電線の途中に接続する送電線が架設されており、発生電力は六郷変電所へと送電された。さらに1921年8月には上流側にて大桑発電所(出力11,000kW)が運転を開始。同時に賤母・六郷間送電線との連絡線も設けられた。 矢作川の串原発電所(出力6,000kW)は1921年2月に完成し仮発電所は廃止された。本発電所建設を機に、木曽川の系統とは別経路で名古屋方面へと輸送する送電線が整備され、呼続町(現・昭和区)に瑞穂変電所が新設されている。
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大同電力からの受電
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旧名古屋電灯から開発部門を分離し発足した木曽電気製鉄は、1921年2月再編によって大同電力となった。そして同年10月までに木曽川に賤母(しずも)発電所(出力12,600 kW)と大桑発電所(同11,000 kW)、矢作川に串原発電所(同6,000 kW)をそれぞれ完成させていた。発生電力は名古屋市内の2か所の自社変電所へ送電されており、須原・賤母発電所と串原発電所からそれぞれ77kV送電線が建設された。東邦電力は両変電所にて大同電力から受電し、前述の通りその他の電源とともに主として名古屋市一帯の配電に充てていた。その後大同電力による木曽川開発が進展するとともに東邦電力への電力供給も増加し、最大で33,000kWまで伸長した。 大同電力は名古屋方面へと送電する一方で、東海地方を越えて大阪府に至る送電線を1922年7月に建設し、関西地方への送電を開始した。その後関西方面への送電は増加するが、反対に東邦電力への供給は増加しなくなった。東邦電力は不足分を自社発電所の建設や他社からの受電によって補う方針を採ったことから、大同電力から東邦電力名古屋方面への電力供給は28,000kWに削減の上以後据え置かれた。供給を28,000kWとする契約は1924年(大正13年)2月に締結され、供給地点は大同電力の変電所2か所と東邦電力の変電所1か所、料金は1キロワット時 (kWh) あたり2銭と取り決められた。 また1923年11月からは奈良方面における大同電力からの受電も始まった。受電電力は初め2,500kWで、以降随時増加していった。
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