大同電力に移る
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/01 16:20 UTC 版)
名古屋における福澤桃介の事業については、「福澤氏が日本における財界の巨額として自他共に許す様になったのは愛知県下における同氏経営の事業が漸次発展するに至ったからである」(1924年)と評価されていたものの、排外的な土地ゆえに地元の名古屋財界とは折り合いが悪かったという(下記#人物評参照)。後に桃介自身も、伊藤次郎左衛門(いとう呉服店、後の松坂屋を経営)などの地元財界には東京から「山師」がやってきたと見られて好感を持たれず、小山松寿(名古屋新聞を経営)などからも攻撃された、と語っている。それゆえこんな馬鹿らしい所にいるものかと思い、大阪進出を企てたことが、大阪送電、後の大同電力を立ち上げた理由という。 その大阪送電は1919年11月8日、木曽電気興業と京阪電気鉄道の提携により資本金2000万円で設立され、桃介が初代社長となった。第一次世界大戦による好景気で電力不足に陥っていた関西地方へ木曽川で開発する電力を送電することを起業目的としたが、大阪送電設立に前後して、同様に関西地方への送電を目指す電力会社が設立されていた。一つは宇治川電気の関係者が中心となって設立した日本電力で、もう一つは山本条太郎や大阪電灯・京都電灯関係者が設立した日本水力である。3社鼎立の形になったが、翌1920年春に戦後恐慌が発生すると、3社のうち大阪送電と日本水力の合併話が浮上する。同年10月、木曽電気興業に大阪送電・日本水力を加えた3社の合併が決定し、翌1921年(大正10年)2月25日付で合併が成立して資本金1億円の大同電力株式会社が発足するに至った。社長には京阪電気鉄道社長の岡崎邦輔を推す声があったが、桃介が自分でやると言って結局初代社長となった。 一方、木曽電気興業の母体である名古屋電灯は、1921年10月18日付で関西水力電気との合併が成立し、資本金約7000万円の関西電気株式会社へと発展した。同社経営陣はほぼ旧名古屋電灯のままであり、従って桃介が社長を務める。しかし翌11月17日、桃介は突如新聞紙上で関西電気社長の辞任を発表した。辞任理由については関西電気の地盤が固まったのを機に後身に道を譲るため、また大同電力など新設会社の経営に専念するためと述べている。ただし同時代の名古屋の実業家青木鎌太郎によると、桃介の退陣は名古屋市会における「電政派」問題の責任をとったことも一因と見られるという。この「電政派」というのは元社長の加藤重三郎や副社長の下出民義など市会議員のうち名古屋電灯関係者が作る派閥であった。この派閥は市政掌握を狙って市長の座を狙い、1921年6月に現職市長佐藤孝三郎への不信任案を可決して自派の大喜多寅之助を市長に就任させたが、この行動が野党や市民からの強い批判を招いていたのである。 1921年12月23日に開かれた株主総会をもって桃介は副社長の下出民義とともに関西電気社長を辞任。この段階ですでに前述の九州電灯鉄道との合併が内定しており、九州電灯鉄道社長伊丹弥太郎と同社常務取締役松永安左エ門がそれぞれ関西電気の後任社長・副社長に就任した。辞任した桃介は改めて相談役に就いている。そして翌1922年(大正11年)には関西電気と九州電灯鉄道の合併が成立、中京地方と九州地方を供給区域に持つ資本金1億円超の電力会社東邦電力株式会社が発足した。
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