大同電力副社長となる
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/15 13:48 UTC 版)
1921年(大正10年)2月、大阪送電・木曽電気興業に日本水力を加えた3社が合併し、資本金1億円の大同電力株式会社が発足する。社長に福澤桃介、副社長に宮崎敬介、常務取締役に増田次郎ほか4名がそれぞれ選出され、その下で村瀬は取締役兼支配人に就任した。大同電力成立後も電源開発は続き、大井ダム(岐阜県、1924年竣工)のような難工事もあったが、村瀬は建設方面を担当してその完成に努めた。電源開発に関連し、1922年(大正11年)2月に大同電力が傍系会社北恵那鉄道(現・北恵那交通)を設立した際には取締役に就任。次いで同年8月、名古屋セメントが豊国セメントに合併されると、その豊国セメントの取締役となった。翌1923年(大正12年)4月には大同電気製鋼所(大同特殊鋼の前身)の取締役にも選ばれている。 1925年(大正14年)12月、大同電力常務取締役に就任。傍系会社では、1926年(大正15年)3月天竜川開発を目的に天竜川電力が発足すると常務取締役に選出。翌1927年(昭和2年)1月には増田次郎の後任として大阪府に供給区域を持つ大阪電力の第2代社長に就任した。そして1928年(昭和3年)6月26日、大同電力において初代社長福澤桃介が退任して増田次郎が副社長から2代目社長に上がると、常務であった村瀬は同じく常務の太田光凞とともに代表取締役副社長に昇格した。 こうして大同電力副社長まで昇進した村瀬であるが、やがて社長の増田を抑えてほとんど社長実権者のようになり、周囲に不快感を抱かせたという。また対外交渉においても闘争的な態度をとっており、これが業界内で大同電力が孤立して主務省や金融機関からも距離を置かれる原因となったとされる。大同電力は1931年(昭和6年)11月期の決算において不況による減収で減配(年率8パーセントから6パーセントへ)を余儀なくされたが、この減配と役員の総改選が重なったことで村瀬に対する不満が噴出、太田光熈や寺田甚与茂らが村瀬の更迭を求めるに至る。社長の席を将来的には村瀬に譲る意向であったという増田は対立の緩和に努めたものの最終的に副社長制の廃止を決断した。そして同年12月26日の株主総会をもって村瀬は太田とともに代表取締役副社長から退いた。 村瀬は以後、会社解散直前の1939年(昭和14年)3月まで大同電力の取締役に留まったが、藤波収や永松利熊が常務取締役に昇格していく中でも平取締役のままであった。
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