大同電力常務に昇進
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 02:47 UTC 版)
1919年11月、木曽川の電力を関西地方へと送電するべく大阪送電株式会社が設立された。藤波は同社の電気部長に就任。さらにこの大阪送電と木曽電気興業に日本水力の3社を加えて1921年(大正10年)2月大同電力株式会社が発足すると同社の送電課長となり、常務の近藤茂の下で木曽から大阪へと至る長距離送電線の建設にあたった。しかし1921年秋ごろより体調を崩し、12月には名古屋を離れて小田原へと移って療養生活を始める。1年以上経った1923年(大正12年)3月に復帰し名古屋へと戻り、次いで大阪へと転勤、同年9月には技術課長に任ぜられた。 大同電力が相次いで設立した傍系会社の役員にも就いた。まず1925年(大正14年)4月、北恵那電力の設立に伴い同社の取締役となる。同社は後の信美電力で、木曽川支流での電源開発を担当した。次いで同年8月大阪電力の取締役、翌1926年(昭和元年)12月には昭和電力の取締役にそれぞれ就任した。大阪電力は大阪府内における大同電力の事業を分離した会社、昭和電力は北陸地方における電源開発を担当する会社である。 1928年(昭和3年)12月26日、大同電力において取締役に選出された。技術課長との兼任で、営業課長の有村慎之助ら古参社員とともに社長増田次郎の推薦による取締役昇格であった。取締役となると営業担当ではないにもかかわらず営業方面の仕事も引き受けるようになり、1929年(昭和4年)の夏から秋にかけて東京電灯との間で電力受給契約について交渉が行われた際には頻繁に東京へ出張した。1931年(昭和6年)6月職制改革で四部制が実施されると藤波は工務部長に就任。次いで同年12月の重役整理の際支配人に就任し、同時に営業・工務の担当者を入れ替えて藤波が営業担当に回った。 翌1932年(昭和7年)12月、村瀬末一・太田光凞の副社長昇格(ただし前年12月退任)以来4年にわたり空席であった大同電力の常務取締役に就任した。常務として大阪支店に常駐し会社の最前線を取り仕切り、1933年(昭和8年)春に浮上した宇治川電気を相手とする攻防戦では、大同からの受電を削減しようと試みる同社に対し交渉を続け、最終的に逓信省による自社に有利な裁定を勝ち取った。 傍系会社においては、1931年5月信美電力の代表取締役に就任した。ただし在任期間は短く、信美電力は翌1932年4月姉妹会社の伊那川電力(合併後木曽発電へ改称)に合併された。なお合併相手の伊那川電力・木曽発電においても藤波は1928年11月の会社設立時から1933年6月にかけて取締役を務めている。
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