大同電力社長就任
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1928年(昭和3年)6月、福澤桃介から健康が優れず引退したいので自分の後を継いでもらえないかと依頼され、大同電力の2代目社長に就任することとなった。6月9日付で福澤は大同電力社長を辞任。そして増田は26日後任社長に就任した。増田の社長昇格と同時に村瀬末一と太田光凞が副社長に昇格している。社長就任について増田は後年自叙伝にて、「大同電力の事業は全く福澤さんの天稟の才にあるもの」でそれに従って働きさえすれば良かったのであり、自分と交代するのは「金と真鍮を替えたようなものだろう」、と書いている。同年9月、大同肥料においても福澤の後任社長に就いた。 大同電力は社長就任前後の1926年から1929年にかけて営業の最盛期を迎えていたが、翌1930年(昭和5年)以降は世界恐慌の影響が波及して収入が減退し、配当率を年率10パーセントから順次引き下げざるを得なくなった。その渦中の1931年(昭和6年)11月、減配と役員改選が重なったことで副社長村瀬末一の排斥騒動が起こる。村瀬は福澤の腹心で、増田は将来的に社長の座を譲る意向であったというが、太田光凞や取締役の寺田甚与茂らが村瀬の専横を非難してその排斥を図ったため、増田も副社長制の廃止を余儀なくされた。同年12月、村瀬・太田両名は副社長から外れる。これで一旦副社長・常務とも不在となるが、のちに藤波収・永松利熊が常務となっている。 不況による収入減が続く中、1931年12月の金輸出が再禁止を機に急激な円安が進行すると、大同電力では外債の利払費・償還費が急騰して多額の為替差損も抱えることになり、深刻な経営難に陥った。1933年(昭和8年)上期には膨大な為替差損に押されて無配に転落する。経営再建のため同社は1933年11月に会社更生計画を発表し、1934年下期まで4期2年間無配を続けて財務整理に傾注した。増田は後年自叙伝にて、大同電力の苦境について「前途は暗雲低迷、どうなることかと生きた心地もなかった」と述べ、業績の回復については「決して私の微力の致すところではない。福沢初代社長の余光と、先輩の後押し、従業員諸君の一致協力と、世間様の同情があったればこそである」と述べている。 経営不振の最中にあった1933年、大同電力では財務整理の一環として社長の増田に傍系会社の代表者を兼任させてその統制と整理に努めるという方針を立てた。同年5月、まず梼原水力電気の社長に就任。6月大阪電力の社長に復帰したほか、大同電力副社長を更迭された村瀬末一に席を譲っていた昭和電力社長にも復帰し(村瀬は副社長となる)、木曽発電社長にも就いた。三井鉱山との合弁会社神岡水電では三井鉱山関係者が長く会長を務めたが、1938年(昭和13年)3月になって増田が会長に就任している。 他の電力会社と共同設立した発電会社でも社長職を歴任した。関西の電力会社4社(大同電力のほか日本電力・宇治川電気・京都電灯)による共同出資で1931年7月に火力発電会社関西共同火力発電が設立されると、まずは取締役に就任。出資4社の代表者が1年ずつ輪番で社長を務めると取り決められたことから、増田も2度にわたって社長となった。木曽川の今渡発電所建設を目的に東邦電力と1935年(昭和10年)7月に設立した愛岐水力でも東邦電力社長松永安左エ門と1年ごとに交替で社長を務めた。 大同電力関連以外では、1936年(昭和11年)2月15日、中瀬鉱業と天美鉱業が合併し発足した日本精鉱の社長に就任した。前身のうち天美鉱業は増田が社長を務めていた会社にあたる。日本精鉱では中瀬鉱山(兵庫県)の開発に取り組み、増田はこれを電気事業に次ぐ自身の終生の事業として社業育成に努める意向であったという。
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