大同電力時代とは? わかりやすく解説

大同電力時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/24 18:07 UTC 版)

石川栄次郎」の記事における「大同電力時代」の解説

大桑発電所担当中の1918年9月臨時建設部が新会社木曽電気製鉄(後の木曽電気興業)に分離され新会社開発担当する一方で名古屋電灯配電特化する、という体制変わっていた。さらに木曽電気興業大阪送電日本水力の3社が合併し1921年大正10年2月福澤桃介社長とする大同電力株式会社成立した石川大同電力所属となり、大桑発電所完成後は桃山発電所建設担当となっていたが、名古屋電灯浜松天竜川水力電気買収することになったからということ1921年6月天竜川開発担当回された。静岡県側地点での水利権獲得動き実地調査などを行うものの、天竜川開発を行う新会社設立不況により断念されたため、翌1922年大正11年7月一転してアメリカ合衆国でのダム研究指示された。 1922年11月にアメリカ・サンフランシスコへ到着アメリカダム視察して回り、翌1923年大正12年6月帰国した当時大同電力では大井発電所および大井ダム建設最中であり(1922年7月着工)、石川帰国直ち大井発電所派遣された。大井出張所次長就任し土木部門工事担任者一人となる。難工事の末、1924年大正13年12月大井発電所竣工した大井ダム竣工後は木曽川にて計画中の発電所調査設計命じられる。しかし大同電力発電所建設1926年大正15年)に落合発電所完成したのを最後にしばらく中断された。 1927年昭和2年)、石川木曽川支流伊那川に目をつけ、伊那川発電所を持つ製紙会社樺太工業からの電気事業買収発電所新規建設、およびこれを管轄する新会社設立企画する。この企画大同電力容れるところとなり、翌1928年昭和3年11月伊那川電力、後の木曽発電株式会社発足した設立に際して石川同社取締役就任し同社建設工事主宰することとなった1931年昭和6年)になると不況による業績不振のため大同電力社内では整理実行され石川名古屋支店所属であったがに大阪支店工務課土木主任となり大阪転勤となった。一旦建設部門縮小されのであるが、会社更生一環として1933年昭和8年)より発電所建設再開すると、翌1934年昭和9年5月には工務課土木係が強化され石川課長とする土木課として独立した同年7月木曽川笠置発電所建設のため笠置出張所現場開設され石川土木課長兼務所長に就く。笠置発電所石川土木部門工事担任者として着工され1936年昭和11年11月竣工した続いて木曽川寝覚出張所長に就任笠置と同様石川土木部門工事担任者として寝覚発電所の建設始まり1938年昭和13年9月竣工する至った1937年昭和12年6月大同電力取締役選出される最終的に同社では取締役工務次長土木課長務めた

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大同電力時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/23 04:30 UTC 版)

宮寺敏雄」の記事における「大同電力時代」の解説

宮寺敏雄1892年明治25年3月31日宮寺昇作の次男として生まれた出身静岡県沼津市沼津中学校経て慶應義塾大学理財科進み1915年大正4年卒業親戚銀行家多かったため周囲から三井銀行への就職勧められたがこれを断り日本陶器に入るため名古屋市赴く。しかし同社への入社が叶わなかったため、福澤桃介面会して彼が経営する電力会社名古屋電灯株式会社入社することとなった名古屋電灯では営業課員として勤務する1918年から翌年にかけては日本陶器電化工事担当となり、同社技師で後に日本碍子社長となる江副孫右衛門知り合う。また福澤発案名古屋電灯大阪大阪電灯福岡九州電灯鉄道の3社で社員交換行った際には、宮寺名古屋電灯から大阪電灯へと派遣された。 1921年大正10年2月福澤桃介社長として大同電力株式会社発足したに伴い名古屋電灯から同社へと転ずる初め営業課次長に就き、後に営業課長に昇進した。また1925年大正14年8月大同電力が営む大阪府下堺市岸和田市などにおける一般供給事業傍系会社大阪電力株式会社として独立すると、設立に際して宮寺取締役支配人選出された。以降同社事業の拡張努め専務木村森蔵1933年昭和8年)に死去してからは支配人のまま木村後任となり経営あたった1934年昭和9年11月末に同社大同電力吸収されるまで取締役支配人在任している。 1934年12月大同電力取締役選出最終的に同社では取締役兼営部長務めた。しかし大同電力は、電力国家管理政策実現により国策電力会社日本発送電設立決定すると、会社の解散日本発送電資産負債移譲決定解散に伴い1939年昭和14年3月30日付で宮寺大同電力取締役退任した

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大同電力時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/19 13:38 UTC 版)

近藤茂 (技術者)」の記事における「大同電力時代」の解説

1919年11月丹羽鋤彦とともに10月設立されたばかり日本水力株式会社入り常務取締役就任した同社山本条太郎福井県出身)を社長とする電力会社で、北陸地方中心に電源開発行い関西地方へと電力供給する構想の下設立されていた。翌1920年大正9年1月技師とともに機械資材購入のため渡米する。ところが同年春の戦後恐慌より金融難に陥り日本水力事業停滞してしまう。やがて福澤桃介率い大阪送電および木曽電気興業との合併決まり1921年大正10年2月、3社の合併成立して大同電力株式会社発足した大同電力でも近藤引続き常務取締役選出された。同社では旧大阪送電計画していた木曽川から関西への送電線大阪送電線」の建設優先され旧日本水力が発注していた資材転用して1923年大正12年)に竣工した近藤常務として同送電線建設にあたる。なお近藤の下で同社送電課長として送電線建設参加したのが後に常務昇進する藤波収である。 1926年昭和元年12月大同電力傍系会社として昭和電力株式会社設立され北陸地方での電源開発および北陸から関西への送電線建設同社にて手がけることとなった設立際し近藤初代取締役副社長就任する社長増田次郎)。1929年昭和4年)、同社の「北陸送電幹線」が完成し翌年には庄川祖山発電所も運転を開始した1929年昭和4年12月大同電力常務辞任1931年昭和6年5月には昭和電力副社長辞任し、翌1932年昭和7年12月には留任していた大同電力取締役からも退いた後進道を譲った近藤は、大同電力技術顧問となり閑地についた1954年昭和29年1月1日東京都品川区小山町自宅にて死去。満79歳。

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