大同電力時代
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大桑発電所担当中の1918年9月、臨時建設部が新会社木曽電気製鉄(後の木曽電気興業)に分離され、新会社が開発を担当する一方で名古屋電灯は配電に特化する、という体制に変わっていた。さらに木曽電気興業と大阪送電・日本水力の3社が合併し、1921年(大正10年)2月に福澤桃介を社長とする大同電力株式会社が成立した。石川は大同電力の所属となり、大桑発電所の完成後は桃山発電所建設の担当となっていたが、名古屋電灯が浜松の天竜川水力電気を買収することになったからということで1921年6月、天竜川開発担当に回された。静岡県側の地点での水利権獲得に動き、実地調査などを行うものの、天竜川開発を行う新会社の設立が不況により断念されたため、翌1922年(大正11年)7月、一転してアメリカ合衆国でのダム研究を指示された。 1922年11月にアメリカ・サンフランシスコへ到着。アメリカのダムを視察して回り、翌1923年(大正12年)6月に帰国した。当時、大同電力では大井発電所および大井ダム建設の最中であり(1922年7月着工)、石川は帰国後直ちに大井発電所へ派遣された。大井出張所の次長に就任し、土木部門の工事担任者の一人となる。難工事の末、1924年(大正13年)12月に大井発電所は竣工した。大井ダム竣工後は木曽川にて計画中の発電所の調査設計を命じられる。しかし大同電力の発電所建設は1926年(大正15年)に落合発電所が完成したのを最後にしばらく中断された。 1927年(昭和2年)、石川は木曽川支流伊那川に目をつけ、伊那川に発電所を持つ製紙会社樺太工業からの電気事業買収と発電所の新規建設、およびこれを管轄する新会社の設立を企画する。この企画は大同電力の容れるところとなり、翌1928年(昭和3年)11月に伊那川電力、後の木曽発電株式会社が発足した。設立に際して石川は同社取締役に就任し、同社の建設工事を主宰することとなった。 1931年(昭和6年)になると不況による業績不振のため大同電力社内では整理が実行され、石川は名古屋支店所属であったがに大阪支店工務課土木係主任となり大阪に転勤となった。一旦建設部門は縮小されたのであるが、会社更生の一環として1933年(昭和8年)より発電所建設を再開すると、翌1934年(昭和9年)5月には工務課土木係が強化されて石川を課長とする土木課として独立した。同年7月、木曽川笠置発電所建設のため笠置出張所が現場に開設され、石川は土木課長と兼務で所長に就く。笠置発電所は石川を土木部門の工事担任者として着工され、1936年(昭和11年)11月に竣工した。続いて木曽川寝覚出張所長に就任、笠置と同様石川を土木部門の工事担任者として寝覚発電所の建設が始まり、1938年(昭和13年)9月竣工するに至った。 1937年(昭和12年)6月、大同電力取締役に選出される。最終的に同社では取締役工務部次長兼土木課長を務めた。
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大同電力時代
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宮寺敏雄は1892年(明治25年)3月31日、宮寺昇作の次男として生まれた。出身は静岡県沼津市。沼津中学校を経て慶應義塾大学理財科に進み、1915年(大正4年)卒業。親戚に銀行家が多かったため周囲から三井銀行への就職を勧められたがこれを断り、日本陶器に入るため名古屋市へ赴く。しかし同社への入社が叶わなかったため、福澤桃介に面会して彼が経営する電力会社名古屋電灯株式会社に入社することとなった。 名古屋電灯では営業課員として勤務する。1918年から翌年にかけては日本陶器の電化工事の担当となり、同社技師で後に日本碍子社長となる江副孫右衛門と知り合う。また福澤の発案で名古屋電灯と大阪の大阪電灯、福岡の九州電灯鉄道の3社で社員交換を行った際には、宮寺が名古屋電灯から大阪電灯へと派遣された。 1921年(大正10年)2月に福澤桃介を社長として大同電力株式会社が発足したのに伴い名古屋電灯から同社へと転ずる。初め営業課次長に就き、後に営業課長に昇進した。また1925年(大正14年)8月、大同電力が営む大阪府下の堺市・岸和田市などにおける一般供給事業が傍系会社大阪電力株式会社として独立すると、設立に際して宮寺は取締役兼支配人に選出された。以降同社の事業の拡張に努め、専務の木村森蔵が1933年(昭和8年)に死去してからは支配人のまま木村の後任となり経営にあたった。1934年(昭和9年)11月末に同社が大同電力に吸収されるまで取締役兼支配人に在任している。 1934年12月大同電力取締役に選出。最終的に同社では取締役兼営業部長を務めた。しかし大同電力は、電力国家管理政策の実現により国策電力会社日本発送電の設立が決定すると、会社の解散と日本発送電へ資産負債の移譲を決定。解散に伴い1939年(昭和14年)3月30日付で宮寺は大同電力取締役を退任した。
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大同電力時代
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1919年11月、丹羽鋤彦とともに10月に設立されたばかりの日本水力株式会社に入り常務取締役に就任した。同社は山本条太郎(福井県出身)を社長とする電力会社で、北陸地方を中心に電源開発を行い関西地方へと電力を供給する構想の下設立されていた。翌1920年(大正9年)1月、技師とともに機械・資材の購入のため渡米する。ところが同年春の戦後恐慌により金融難に陥り日本水力の事業は停滞してしまう。やがて福澤桃介率いる大阪送電および木曽電気興業との合併が決まり、1921年(大正10年)2月、3社の合併が成立して大同電力株式会社が発足した。 大同電力でも近藤は引続き常務取締役に選出された。同社では旧大阪送電が計画していた木曽川から関西への送電線「大阪送電線」の建設が優先され、旧日本水力が発注していた資材を転用して1923年(大正12年)に竣工した。近藤は常務として同送電線の建設にあたる。なお近藤の下で同社送電課長として送電線建設に参加したのが後に常務に昇進する藤波収である。 1926年(昭和元年)12月、大同電力の傍系会社として昭和電力株式会社が設立され、北陸地方での電源開発および北陸から関西への送電線建設を同社にて手がけることとなった。設立に際し、近藤は初代取締役副社長に就任する(社長は増田次郎)。1929年(昭和4年)、同社の「北陸送電幹線」が完成し、翌年には庄川の祖山発電所も運転を開始した。 1929年(昭和4年)12月大同電力の常務を辞任。1931年(昭和6年)5月には昭和電力副社長も辞任し、翌1932年(昭和7年)12月には留任していた大同電力取締役からも退いた。後進に道を譲った近藤は、大同電力技術顧問となり閑地についた。 1954年(昭和29年)1月1日、東京都品川区小山町の自宅にて死去。満79歳。
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