日発理事・関配副社長
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1938年(昭和13年)4月、電力の国家管理を目的とする電力管理法が公布され、国策会社日本発送電株式会社(日発)の設立が決定する。その裏で藤波が属する大同電力は、国家管理が経営に与える影響が大きかったことから、資産負債一切を日発へ移譲した上で解散することを決めた。解散は翌1939年(昭和14年)4月2日付で実行に移されたが、解散後の清算人とならない役員は解散に先立ち辞任手続きをとることとなったので、藤波も同年3月30日付で常務取締役兼支配人を辞任した。また28日付で当時在籍していた傍系会社の役員(昭和電力取締役・神岡水電取締役・愛岐水力取締役など)も辞任している。 1939年4月1日、日発は創立総会を開催し発足する。大同電力からは社長の増田次郎が総裁に、常務の藤波と永松利熊が常務理事にそれぞれ就任した。藤波は電気工作物の運用・保守・改良および電力の配給をつかさどる工務部の部長に就き、大同電力時代に担当していた経営方面ではなく技術方面にて活動することとなった。1940年(昭和15年)7月の機構改革で理事部長制が社員部長制に改められたため、藤波は工務部長から降りて電気建設部・土木建設部・機械建設部・建築課の担当に変わる。さらに1941年(昭和16年)5月、増田の後任総裁池尾芳蔵による機構改革で総務・営業・建設の3局が置かれるとこのうち建設局長を任された。翌1942年(昭和17年)7月再度の機構改革で工務局長となり、1943年(昭和18年)12月の新井章治新総裁による機構改革では運営部門をつかさどる業務局長となった。 1944年(昭和19年)4月5日、新井総裁は派閥形成や寄り合い所帯の弊害を解消するとして本人曰く「無軌道な人事」を断行し、藤波を含む3局長を罷免した。藤波の後任業務局長は安蔵弥輔。日発理事からの退任は12日付で、関東配電株式会社に転出して同社副社長に就任した。同社は配電統制令に基づき東京電灯の事業などを統合して1942年に発足した関東地方を供給区域とする国策配電会社である。当時社長は元逓信次官の平沢要で、日発総裁となった前社長の新井を追って副社長であった安蔵も日発に転じたので、交代で藤波が入った形となった。関東配電副社長として太平洋戦争の終戦を迎え、戦後の公職追放との関連により1946年(昭和21年)5月30日付で辞職した。
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