日発による開発計画
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/26 15:59 UTC 版)
この頃には阿賀野川上流にもダム式発電所の建設ブームが始まり、東信電気株式会社は阿賀野川本流に1927年(昭和2年)鹿瀬ダムを建設したのを皮切りに1928年(昭和3年)には豊実ダム、1938年(昭和13年)には新郷ダムを完成させた。折から逓信省によって1936年(昭和11年)第三次発電水力調査が行われ、絶好の適地である阿賀野川・只見川の水力発電が俄然注目された。1939年(昭和14年)に電力管理法によって設立された日本発送電(日発)は、この法律に基づき只見川などを中心に、阿賀野川を河口にする複数の支流を含め、上流域全体で20ヶ所の発電用ダム建設を計画。手始めに阿賀野川に1943年(昭和18年)山郷ダムを完成させたが、その後は戦争の激化で事業は中断を余儀無くされた。 戦後、水力発電開発が再開され1947年(昭和22年)日発東北支店は「只見川筋水力開発計画概要」を立案。戦前の計画に沿った開発が行われた。この事業の核となったのは只見川上流の巨大ダム式発電所計画である。只見川は全国屈指の水量と急流を誇り水力発電最適の地として注目され、仮に計画通り開発が行われると当時東北で計画されていた新規包蔵水力の 75% 、196万キロワットを賄うことが可能であった。だがこの豊富な資源は隣接する自治体・企業も注目しており、新潟県は只見川の河水を信濃川にまで分水する「只見川分流案」を、旧東京電燈を主体とする日発関東支社は尾瀬に高さ85メートル、有効貯水容量3億3,000万立方メートルの尾瀬原ダムを建設し、利根川にまで分水する「尾瀬分水案」を引っ提げ、三者鼎立した状況となった。
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