尾瀬分水案
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1939年、群馬県は利根川の豊富な水量を治水と水力発電に利用するために「利根川河水統制計画」を策定した。この中で群馬県は利根川本川にダムを二箇所建設する計画を立てた。即ち楢俣地点に高さ 130 m 、幸知地点に高さ 52 m のダムを建設して治水と発電を行おうとしたが、その後逓信省案に参加する形で統合された。尾瀬原ダムを利用して利根川へ湖水を落とし、認可出力 364,000 kW の揚水発電を行う計画とした。揚水発電は1934年4月に野尻湖を利用した池尻川発電所が運転を開始していたが、日本では本格的かつ国内最大の揚水式水力発電所となり、当時としてはアメリカのフーバーダムに次ぐ規模の大規模水力発電であった。 この計画では尾瀬原ダムの他に利根川最上流部の湯の花温泉付近にダムを建設し、両地点を連携した揚水発電によって 364,000 kW を発電する。この時に選定された利根川のダム計画は、後に首都圏の水がめとなる矢木沢ダムの原点である。この時点では堤高 103 m 、有効貯水容量1億300万トンの規模で、これに伴い楢俣地点のダム計画が大幅に縮小、幸知地点のダム計画は一旦消滅した。 発電所については合計八箇所を計画し、その根幹として尾瀬第一発電所と尾瀬第二発電所を建設することで合計 677,000 kW の認可出力を発電する予定であった。この尾瀬第一発電所は尾瀬原ダム地点に、尾瀬第二発電所は矢木沢ダム地点に建設し、トンネルで両者を結んで揚水発電を行う。この他片品川へ尾瀬沼より導水して発電を行う他、利根川筋に水路式発電所を建設して首都圏への電力需要を賄おうとしたのである。1944年着手された片品川へ導水する施設については途中戦争による中断を経て1949年(昭和24年)に完成している。 利根川開発案での水力発電計画は次の通りである。なお、尾瀬原ダムを建設しない場合の案もあるがこれは割愛する。 河川発電所有効落差(m)使用水量(m³/S)認可出力(kW)ダム堤高(m)有効貯水容量(千m²)只見川 尾瀬第一 290.0 74.0 179,000 85.0 330,000 只見川 尾瀬第二 300.0 74.0 185,000 - - 利根川 矢木沢 87.0 50.0 36,300 103.0 103,000 利根川 須田貝 81.6 40.0 27,200 - - 利根川 幸知 115.3 42.0 40,400 - - 利根川 小松 114.1 50.0 49,600 - - 利根川 岩本 108.3 55.0 49,600 - - 利根川 佐久 112.2 120.0 112,000 - - 計 8 1,208.5 677,000 433,000
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尾瀬分水案(利根川分流案)
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「只見特定地域総合開発計画」の記事における「尾瀬分水案(利根川分流案)」の解説
詳細は「尾瀬原ダム計画」を参照 尾瀬分水案(利根川分流案)とは日発関東支店の地盤を継承した東京電力と群馬県が推した計画案である。最大の特徴は尾瀬原ダムの水を利根川水系に分水し、水力発電を行う計画になっていることである。 1919年に関東水電が提示した原案は逓信省が示した案を東京電燈が受容することでほぼ骨格が固まっていた。この中で尾瀬原ダムの規模は高さ85メートル、貯水容量3億3000万立方メートルと他の計画案に比べて規模が最大になっている。そして尾瀬原ダムの水は尾瀬第一・第二発電所によって利根川との間で揚水発電を行う。この当時群馬県は利根川上流部に矢木沢・楢俣・幸知 の三ダムを建設して水力発電を行う計画であったが、東京電燈はこれと整合性を取り矢木沢ダムを下部調整池とした揚水発電を行うとした。これによって合計36万4000キロワットの発電を行うほか、利根川下流にある既設の水力発電所の出力増強を図る計画である。計画全体における認可出力の合計は67万7000キロワットとなる。 河川発電所認可出力(kW)ダム高さ(m)有効貯水容量(千m²)只見川 尾瀬第一 179,000 85.0 330,000 只見川 尾瀬第二 185,000 利根川 矢木沢 36,300 103.0 103,000 利根川 須田貝 27,200 不明 不明 利根川 幸知 40,400 利根川 小松 49,600 利根川 岩本 49,600 利根川 佐久 112,000 計 8 677,000 433,000 この案は1947年に商工省が経済安定本部の委託を受けて策定した「只見川・尾瀬原・利根川総合開発計画」の中でも中心事業に位置づけられ、東京電力などは京浜工業地帯への電力供給を図り戦後疲弊した経済を早期に回復させることが可能と主張した。ただし只見川流域では当時東京電力が水利権を所有していた本名・上田発電所以外での開発は行われない。
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