尾瀬分水案の中止
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/10 08:50 UTC 版)
「只見特定地域総合開発計画」の記事における「尾瀬分水案の中止」の解説
一方、利根川改訂改修計画と「只見川本流案」の採用により計画が棚上げになった尾瀬原ダムであるが、棚上げ直後の1953年より水力発電のみならず治水に利用しようとする風潮が関東地方より現れた。当時利根川流域も国土総合開発法に基づく「特定地域」の指定を受け、利根特定地域総合開発計画として具現化していた。この根幹事業として群馬県沼田市に巨大な人造湖を伴う沼田ダム計画が持ち上がったが、この沼田ダムと連携して尾瀬原ダムを治水と発電に利用するという主張が関東地方選出の国会議員より出され、1953年山崎猛を議長に「一都五県利根川治水促進大会」が開かれ尾瀬原ダムの多目的ダム化を要求した。さらに首都圏の水需要がひっ迫するに連れて今度は首都圏の水がめとして尾瀬分水を利用する動きが活発化、神奈川県を除く関東一都五県は「尾瀬水利対策期成同盟会」を組織して尾瀬原ダムと尾瀬分水の早期完成を要望した。 この間尾瀬が1960年(昭和35年)に特別天然記念物に指定されたことから東京電力はダム建設を事実上諦め、1966年(昭和41年)にはダムに拠らない尾瀬分水案を計画、尾瀬原ダム計画は凍結状態となった。しかし関東地方一都五県はダム建設による尾瀬分水を要望、これに対し豊富な只見川の水を関東に奪われることを恐れた福島県は、新潟県と共同で猛反対し東北五県にも協力を依頼した。このため本名・上田両発電所の水利権問題以来再び関東と東北が対立、水利権の許可・不許可を巡って攻防戦が繰り広げられた。 しかし連携する予定であった沼田ダム計画は1972年(昭和47年)に中止、その後こう着状態が続く中で1992年(平成4年)行政手続法施行によって東京電力は次回以降の尾瀬ヶ原の水利権保留の引き伸ばしが不可能になった。利根川上流ダム群の整備、環境保護問題の高まりや尾瀬第一・第二発電所に替わる大規模揚水発電所の相次ぐ完成で建設のメリットが無くなった東京電力は1996年(平成8年)尾瀬ヶ原の水利権を放棄 し、ここに1919年から76年続いた尾瀬原ダム計画・尾瀬分水案は消滅した。また電源開発は奥只見ダムから分水を行って信濃川水系佐梨川に揚水発電所を建設する「湯之谷揚水発電計画」を1991年より着手した。かつて新潟県が主張した「只見川分流案」に良く似た計画であったが、小説家・開高健 が立ち上げた「奥只見の魚を育てる会」などから環境破壊であるとして猛反発を受け、さらに電力需要の低下による採算性の問題から2001年(平成13年)に中止、下部調整池に予定されていた佐梨川ダム が2003年(平成15年)に中止されたことで、計画は完全に消滅した。
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