逓信省案
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/03 09:02 UTC 版)
ここにおいてダム計画は「尾瀬ヶ原出口への建設」という骨子が固まった訳であるが、ダム地点は湿地帯であったことから当時盛んに建設されていた重力式コンクリートダムは建設に不適当な岩盤であった。このため逓信省は型式を当時日本では例のないロックフィルダムとする方向で検討を行った。当初 18.18 m であった高さは 65.0 m と大幅に拡大、さらに 15.0 m 引き上げられ高さ 80 m となり、最終的には 85 m にまで引き上げられた。型式についてはロックフィルダムを基本としたが、戦後の案ではダム両岸をロックフィルダムとし、安山岩が基礎となる中央部のみを重力式コンクリートダムとする案も出され、いわゆるコンバインダム案も検討された。ロックフィルダム案では右岸部に洪水吐きを設けているが、水門を設けず自由に湖水が流出する「自由越流方式」であった。 ダムによって出現する人造湖は総貯水容量 6億8,000万 m3 、有効貯水容量 3億3,000万 m3 という極めて莫大なもので、当時計画されていた北海道の雨竜第一ダム(雨竜川)によって出来た朱鞠内湖を遥かに凌駕し、仮に完成していれば徳山ダム(揖斐川)を上回る規模の人造湖になっていた。この豊富な水量を利用して大規模な発電を行おうとしていたが、第三次発電水力調査を基にした逓信省の案では、尾瀬原ダムで出来る人造湖を利根川に導水して揚水発電を行うという計画であった。後に1939年(昭和14年)に電力管理法施行に伴い設立された日本発送電(日発)が主体となって計画され、1944年(昭和19年)には尾瀬沼から三平峠をトンネルで貫き片品川へ導水する事業が着手された。これは当時日本発送電を監督していた荒木万寿夫軍需省電気局長が指令したもので、軍部に逆らう愚を悟った福島県も渋々同意している。 尾瀬原ダム及び尾瀬分水については1948年(昭和23年)に逓信省より電力関連行政を継承した商工省により設立された「尾瀬原・利根川・只見川総合開発調査審議会」において最終的な決定を見るが、同時期只見川の大規模な水力発電計画を調査していた日本発送電東北支店が1947年(昭和22年)に「只見川筋水力開発調査概要」を発表し、逓信省案とは異なる尾瀬原ダム計画を計画した。これは後に審議会で「只見川本流案」として提示され、逓信省案は「尾瀬分水案」として両者は比較されることになる。
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