調査概要とは? わかりやすく解説

調査概要

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/19 04:17 UTC 版)

田出井山古墳」の記事における「調査概要」の解説

堺市行われた発掘調査は、前方部東側調査地1)、前方部南東隅(調査地2)、前方部南西西側調査地3)、後円部北部調査地4)で実施されそれぞれから外濠検出された。また、それら各調地点以外でも、範囲確認調査工事立ち合い調査により、外濠検出された。前方部側の外濠調査数が少ないが、それ以外では、調査数が多く外濠存在がほぼ確定してる。 調査地1・前方部東側 - 1980年昭和55年)に、前方部墳丘南東隅から東側の濠対岸付近私有地での発掘調査外堀の外肩を検出し、外肩斜面葺石用いられ深さは1メートルであった。当調査地から道を挟んで内濠外濠との間の内堤にあたる場所で、宮内庁によるトレンチ調査が行われ、外濠の内肩が検出されたことから、外濠の幅が12メートル判明した調査地2・前方部南東隅 - 1992年平成4年)に前方部墳丘南東隅と濠の南東隅を結ぶ、延長線上の対岸付近私有地での発掘調査。。外堀南東の角の外肩を検出し深さ0.7メートル以上、斜面角度25度を検出した調査地3・前方部南西西側 - 1987年昭和62年)に前方部側の濠南東隅の西側付近民間開発地での発掘調査。。外堀検出され、幅は11.5メートル深さ0.8メートル斜面角度22度で、外肩にのみ葺石検出された。 調査地4・後円部北部 - 2005年平成17年墳丘主軸延長線付近民間開発地での発掘調査。。外濠の外肩が検出され、幅11 - 13メートル深さ1メートル弱で、小振りな石の葺石検出された。 全ての発掘地点において、地山に削平が及んでいるため、外濠の幅、深さの値はさらに増すことが確実である。また、すべての地点で帯していた状況を示す状況検出されなかった。また地山保水力が無いことから、外濠は、空堀であった可能性が高いと考えられた。 範囲確認調査工事立ち合いで、外濠確認され地点は、古墳東側で3地点(うち一つをA地点とする)、古墳西側で2地点(D,E地点とする)である。 東側A地点 - 1984年昭和59年後円部東側側方内濠外濠との間の内堤にあたる場所の私有地での範囲確認調査外濠想定される内肩が内濠側へ幅広く検出されたが、2次的改変伴っていたためと考えられた。 西側D地点 - 2000年平成12年前方部東側側方外濠相当する私有地での工事立ち合い調査外濠の外肩と想定される地山傾斜確認した西側E地点 - 2002年平成14年後円部西側側方外濠相当する民間開発地での工事立ち合い調査。2本のトレンチにより外濠幅が11.7メートル判明し深さは1.05メートルであったが、他の調査地点異なる点は、主に粘土質堆積していることから、帯していた可能性考えられた。なお、開発地道路設置外濠避け位置設計変更され、外濠埋没保存された。 各調地点からは遺物豊富に出土した埴輪では、円筒埴輪朝顔形埴輪埴輪人物埴輪などである。調査2、3から5世紀代の須恵器台、調査地3からは、瑪瑙製の勾玉出土した円筒埴輪は、直径35センチメートル程度中型品が主体だが、全容を残す個体が無いために、突帯の条数や器の高さは不明である。 外濠少なくとも、外肩に葺石施し、内提、外提に埴輪設置していたことが判明した。ただし、大部分調査地で、帯を示す状況がないことから、築造時の外濠空堀であった考えられる外濠平面形状は、後円部よりも前方部がやや広がる盾形形状で、規模南北墳丘主軸長で約270メートル前方部での最大幅250メートル推測できた。 内濠外濠後円部から前方部への開き具合や、円筒埴輪から考察すると、ニサンザイ古墳よりも遡ることを示唆する結果となった

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調査概要

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/07/05 15:19 UTC 版)

狐山古墳 (堺市)」の記事における「調査概要」の解説

堺市史』によると、1930年昭和5年)ごろは「環隍の址は北側に完全な空地として存せられ一部は堀溜となってゐ」た。 1998年平成10年10月5日墳丘西側において範囲確認調査実施され若干円筒埴輪片が出土した2008年平成20年6月9日から9月30日にかけて地中レーダー探査が行われ、古墳関連する遺構の状況等、地盤現状探査された。現在の墳丘から4〜7メートル程度外側位置において、反射面落ち込み検出され周濠可能性があることが判明した。しかし、同調査では方墳円墳いずれかであるか判別不能だった2009年平成21年)度には堀削調査が行われ、墳丘西・南・東で濠を検出したことから、円墳であることがほぼ確実となったまた、規模的には大仙陵古墳周辺位置する古墳としては、一本松古墳に並ぶ小型円墳であるとされた。出土した円筒埴輪より、築造時期大仙陵古墳より四半世紀近く遅れ、5世紀第3四半期でも新し時期位置づけることができた。なお、同調査で、濠から5世紀前半5世紀後葉以降須恵器豊富に出土した

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調査概要

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/16 08:37 UTC 版)

御廟表塚古墳」の記事における「調査概要」の解説

1987年昭和62年) - 後円部南西側の濠の発掘調査が行われた。トレンチが3箇所設けられた。濠の両肩地山確認し、濠の埋土から、葺石考えられる礫は出土しなかったが、円筒埴輪埴輪出土した。 この発掘で、幅9.6メートル深さ1.45メートルの濠が確認された。 1994年平成6年6月 - 前方部側の濠と推定できる箇所試掘調査が行われた。No9 - 12の4か所の試掘が行われた。No9 - 撹乱のため肩の位置判明せず。 No10 - 撹乱直下地山確認。 No11 - 濠の堆積土を確認し、濠の深さは0.55メートル確認し、場所は濠の肩付近考えられた。 No12 - 濠の堆積土が良好に確認でき、深さは0.8メートル確認できた。下層には埴輪多く含み堆積から葺石と考えられる礫が出土し前方部の濠が良好に残っていることが確認できた。 No9 - 11所見から、前方部前面の濠の外肩の位置推定することができた。 1999年平成11年11月2000年平成12年2月に削平された前方部切り通し部の試掘立ち合い調査が行われた。No1 - 8の8箇所調査が行われた。No1 - 4 - 前方部北側の濠の北肩を確認し、濠の深さは0.46メートル確認した。 No5 - 前方部北側の濠の南肩を確認し、濠の深さは0.48メートル確認した。 No6・7 - 新し盛土の下に地山確認し前方部盛土が完全に削平されていることが判明。 No8 - 前方部西側の濠の堆積土を確認し、濠の深さは0.23メートル確認した開発に伴う前方部切り通し擁壁設置工事が行われるにあたり立ち会い調査行った南端部分大きく撹乱されていたが、前方部盛土状況良好に確認できた。 前方部南側埴輪列を確認し埴輪列は幅0.9メートル深さ0.25メートルの溝状の掘り込み円筒埴輪据えられ東西方向に2個並んでいた。調査後埋め戻す際に多数円筒埴輪片が採取されたが、本来数個埴輪並んでいた可能性が高い。 調査結果から、本古墳推定復元すると、周濠のある全長75メートル前方後円墳推定できた。後円部の濠と切り通し観察から、墳丘基部地山削り整形していると判明前方部盛土厚さは、円筒埴輪列の位置で0.72メートルで、高さは推定1.45メートルと低い。葺石原位置を保つものは確認できなかったが、表土堆積土から出土しているので、葺石施工されている可能性が高い。 2008年平成20年) - 地中レーダ探査発掘調査予備調査として、掘削伴わない非破壊検査行った周濠部 - 墳丘南側にある道路駐車場、および墳丘北側住宅地脇で、反射面落ち込み見られた。これまでの試掘調査結果および分布形状から周濠推定できた。なお、周提や外濠推定できるようなデータ得られなかった。 墳丘部 - 後円部多数平坦な反射面検出され断面形状検出位置から墳丘外部施設の「テラス」の可能性が高い。 後円部南側現状道路部分の周濠地中レーザー探査により具体的な位置把握できた。また後円部北側周濠は、今まで南側想定周濠図面墳丘主軸線上折り返すことで想定するしか無かったが、今回調査限られた空間ではあるが連続した断面得られた。それら結果は、従来調査による想定範囲に収まるもの従来想定補足することとなった測量図から1段目テラスのの存在想定される高さで、連続的な反射像があり、何らかの遺構存在推定でき、また既存調査埴輪出土した高さとも矛盾せず、テラス位置想定できた。墳頂部では埋葬施設、または、これに関する遺構存在することが想定でき、その位置範囲深度に関する情報が、今後、これらを発掘調査計画する際に有効だ考えられた。 2012年平成24年) - 墳丘残存状況墳丘規模、特に墳丘第2段斜面の裾、葺石確認、第1テラス埴輪列の確認目的として発掘調査行ったまた、第2段斜面の裾と第1段テラス埴輪列を復元し墳丘規模墳丘主軸求められることも期待された。調査場所は8区画が設定された。1区 - 墳丘北東部の濠の外側周囲よりも60センチメートル高まりを持つ竹林に、周濠の外肩、周提、外周溝の有無確認する目的設定層序 - 表土近世から近代客土地山大別できた。周提の可能性があると考えていた高まりは、下層遺構から近代もしくは19世紀以降盛土であると判明した遺構 - 濠、井戸、土、溝などを検出したが、葺石埴輪確認できなかった。周濠部分で肩は底に向かい傾斜後、平坦になってから再び傾斜する。この部分からは葺石埴輪確認できなかった。濠以外の遺構井戸などは、近世以降遺構考えられその場所からは、埴輪片、18世紀代の肥前磁器土師土器青磁陶器、瓦片が出土した2区 - 1区と濠を挟んだ対岸墳丘上に設定層序 - 表土墳丘被覆土、墳丘盛土古墳築造時の基盤層、地山大別できた。墳丘崩落土と考えられる部分から葺石と思われる礫、埴輪片が含まれていた。第2斜面付近で礫が多く含まれた。第1テラス部分で白いシルト広く確認でき、他の調査区でも確認され、本古墳墳丘盛土最下層全面的に積まれたと推測できた。グワショウ坊古墳長塚古墳でも同様に灰白色シルト下層積まれているので、墳丘構築工法一つ考えられる遺構 - 第1テラス埴輪列、第2段斜面の裾と葺石検出埴輪列は5個体確認し第2段途中まで残存していた。埴輪列から3メートル墳丘側の地点第2段斜面の裾と葺石検出した本調査南側噛み合うように敷かれ葺石検出され原位置を保つと考えられる3区 - 1987年昭和62年度調査の第2トレンチ連結する位置設定層序 - 表土墳丘被覆土、墳丘盛土古墳築造時の基盤層、地山大別できた。墳丘被覆土から肥前磁器刷毛目唐津、堺擂鉢を含む陶磁器類、土師土器などを多く含み近世以降人為であった。第2斜面付近では、埴輪葺石多く含み、他の遺物含まず墳丘盛土似ていることから墳丘崩落土と考えられる。第1テラス部分では灰白色シルト層が主体であった遺構 - 埴輪列の痕跡が全く確認できなかった。 4区 - 後円部墳丘南西裾に設定層序 - 表土墳丘被覆土、墳丘盛土確認したが、古墳築造時の基盤層と地山確認していない。墳丘直上にまで肥前磁器、瓦などが含まれ近世の物と考えられる埴輪極めて少量で、葺石もほとんど見られなかった。第1テラスでは黄色シルト確認したが、他区同様の第1テラス懸想積み上げられシルト層と考えられた。 遺構 - 第1テラス埴輪列、瓦質土器集積意向検出墳丘側から7.3メートル地点墳丘傾斜変換店を検出し葺石基底石は無いが、この付近第2段斜面の裾と考えられる斜面裾から濠側へ3メートル地点埴輪検出、この埴輪から80センチメートル地点で瓦質土器皿の集積遺構検出口縁部を下に向け複数重なり出土し地鎮などの祭祀使われ可能性考えられる。皿は15世紀後半考えられ古墳築かれた後に、人の手加わった遺構である。 5区 - 1999年平成11年度)の立ち合い調査検出した埴輪列の延長確認するために設置層序 - 表土、旧耕土墳丘盛土確認。旧耕土は、昭和の頃まで耕作が行われていたと考えられ耕作土を排除する埴輪列を検出墳丘盛土は、粘土砂礫主体とし、その下層に、他調査区同様に淡黄色シルト層を確認した遺構 - 後円部を巡る埴輪列と、前方部へ続く埴輪列を検出一部小型埴輪含まれていた。他の調査区よりも埴輪など形象埴輪が多いのが特徴である。 6区 - 1999年平成11年度の)の立ち合い調査確認できなかった北側埴輪列の検出目的設置層序 - 表土、旧耕土墳丘盛土確認。東壁の一部南壁墳丘被覆土を認めるが、瓦片がある事から近世人為層と考えられた。 遺構 - 後円部前方部の境の埴輪列を検出した検出した埴輪の径は、おおむね19-25センチメートルでだげ、一つ14センチメートル小ぶりで、数個に1個の割合小ぶり埴輪据えられている。これは2区5区調査区でも同様の傾向見られた。 7区 - 北側のくびれ部に設定層序 - 表土墳丘被覆土、墳丘盛土確認墳丘被覆土に近代以降盛土含まれ近世 - 近現代にかけ大きく削り取られ利用されていたと思われる遺構 - 第2段斜面裾の葺石、第1テラスの礫敷き埴輪列を検出葺石調査区中央付近検出北壁付近で量は少ないが直径5 - 13センチメートル前後の礫がしっかり嚙み合うように積み重なっていたため、葺石原位置保っていると考えられる8区 - 埴輪列より濠側の状況確認するために設定層序 - 表土墳丘被覆土、墳丘盛土古墳築造時の基盤地山確認墳丘被覆土に、瓦や肥前磁器などを含み近世 - 近代整地されていると考えられた。第1段テラスよりも地山深く削り込んだ上に盛土が行われており、平坦面のある墳丘盛土存在した可能性高く第1段テラスよりもさらに1段下がった位置平坦面(テラス面)が存在することになり、この位置に造り出し付属していた可能性がある。 遺構 - 第1段テラス埴輪列を検出した出土遺物 - 今回調査では遺物収納コンテナ17分の遺物出土した。その9割以上が埴輪小片で、他に須恵器甕、瓦質土器皿、青花碗、肥前磁器などの磁器類、唐津信楽、堺などの陶器類、土師土器甕、火鉢炮烙、竈、羽釜施釉)、瓦質土器羽釜透明釉皿、瓦、ミニチュア製品など出土している。埴輪以外の出土品で、中世以前遺物は、須恵器甕、瓦質土器皿、青花碗の13点のみで、他は全て近世から近代遺物だった。出土埴輪大部分円筒埴輪で、形象埴輪6点須恵器甕は表土付近から出土し古墳に伴うものかは不明である。 本古墳は削平や撹乱受けているが、旧状をよく留めていることが確認できた。近世から近代に、人為的活動墳丘直上まで及んでいたが、各調査区で葺石埴輪列を検出することができ、古墳内容について多くを得ることができた。 第一テラス - 第1段斜面との境が明瞭ではないが、3区8区状況から幅は約4.5メートル復元できる。古墳時代基盤層から50 - 80センチメートル盛土が行われ、傾斜角2 - 4度と想定できる盛土にさいし、最下層黄褐色系の砂粒混じりシルトおよび、灰白色シルト前面敷いたことが推測できた。 埴輪列 - 第1テラス上で3区以外の調査区から検出した第2段斜面裾から約3メートル想定テラス端まで約1.5メートル位置並べられており、テラス面を2:1に内分する位置にあたる。 第2斜面裾と葺石 - 第2段斜面の裾部で葺石検出葺石長径5 - 13センチメートル小振りで、7区では基底石も確認した全体的に葺石状況良好ではなく、特に斜面上部自然法楽などにより失われているようである。、今回調査では、段築2段3段かの確認はできなかったが、想定される斜面傾斜角墳頂部の高さから、2段可能性が高いと考えられる地中レーダ測量指摘されている埋葬施設有無今後の課題となった造出 - 後円部南部のくびれ部付近で、造出を持つ可能性があった。1999年平成11年度)の立ち合い調査で濠への落ち確認できなかったことから、北側にもその可能性考えられる。 周提・周濠 - 今回検出した埴輪列と第2段斜面裾は、ほぼ完全に同心円正円上に配置されていた。この正円から後円部中心求め前方部埴輪列からテラス端までを1.5メートル仮定し試掘立ち合い得た地山と濠埋土との関係から、埴輪列とテラスの端を導き出した。これにより前方部中心線と、後円部中心点を結び主軸求め前方部前面と濠外肩の方向導いた。これらより、復元される古墳全長は84.8メートル後円部径67.6メートル前方部幅32.0メートルとなった。 本古墳築造時期は、円筒埴輪年代観より5世紀後半ニサンザイ古墳同時期かやや後と考えられる

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