調査概要
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堺市で行われた発掘調査は、前方部東側(調査地1)、前方部南東隅(調査地2)、前方部南西隅西側(調査地3)、後円部北部(調査地4)で実施され、それぞれから外濠が検出された。また、それら各調査地点以外でも、範囲確認調査、工事立ち合い調査により、外濠が検出された。前方部側の外濠は調査数が少ないが、それ以外では、調査数が多く外濠の存在がほぼ確定してる。 調査地1・前方部東側 - 1980年(昭和55年)に、前方部墳丘南東隅から東側の濠対岸付近の私有地での発掘調査。外堀の外肩を検出し、外肩斜面は葺石が用いられ、深さは1メートル強であった。当調査地から道を挟んで内濠と外濠との間の内堤にあたる場所で、宮内庁によるトレンチ調査が行われ、外濠の内肩が検出されたことから、外濠の幅が12メートルと判明した。 調査地2・前方部南東隅 - 1992年(平成4年)に前方部墳丘南東隅と濠の南東隅を結ぶ、延長線上の対岸付近の私有地での発掘調査。。外堀の南東の角の外肩を検出し、深さ0.7メートル以上、斜面角度25度を検出した。 調査地3・前方部南西隅西側 - 1987年(昭和62年)に前方部側の濠南東隅の西側付近の民間開発地での発掘調査。。外堀が検出され、幅は11.5メートル、深さ0.8メートル、斜面角度約22度で、外肩にのみ葺石が検出された。 調査地4・後円部北部 - 2005年(平成17年)墳丘主軸線延長線上付近の民間開発地での発掘調査。。外濠の外肩が検出され、幅11 - 13メートル、深さ1メートル弱で、小振りな石の葺石が検出された。 全ての発掘地点において、地山に削平が及んでいるため、外濠の幅、深さの値はさらに増すことが確実である。また、すべての地点で帯水していた状況を示す状況が検出されなかった。また地山に保水力が無いことから、外濠は、空堀であった可能性が高いと考えられた。 範囲確認調査、工事立ち合いで、外濠が確認された地点は、古墳東側で3地点(うち一つをA地点とする)、古墳西側で2地点(D,E地点とする)である。 東側A地点 - 1984年(昭和59年)後円部東側の側方の内濠と外濠との間の内堤にあたる場所の私有地での範囲確認調査。外濠と想定される内肩が内濠側へ幅広く検出されたが、2次的な改変を伴っていたためと考えられた。 西側D地点 - 2000年(平成12年)前方部東側の側方の外濠に相当する私有地での工事立ち合い調査。 外濠の外肩と想定される地山の傾斜を確認した。 西側E地点 - 2002年(平成14年)後円部西側の側方の外濠に相当する民間開発地での工事立ち合い調査。2本のトレンチにより外濠幅が11.7メートルと判明し、深さは1.05メートルであったが、他の調査地点と異なる点は、主に粘土質が堆積していることから、帯水していた可能性が考えられた。なお、開発地の道路設置が外濠を避ける位置に設計変更され、外濠が埋没保存された。 各調査地点からは遺物が豊富に出土した。埴輪では、円筒埴輪、朝顔形埴輪、蓋型埴輪、人物埴輪などである。調査地2、3から5世紀代の須恵器台、調査地3からは、瑪瑙製の勾玉が出土した。円筒埴輪は、直径35センチメートル程度の中型品が主体だが、全容を残す個体が無いために、突帯の条数や器の高さは不明である。 外濠は少なくとも、外肩に葺石を施し、内提、外提に埴輪を設置していたことが判明した。ただし、大部分の調査地で、帯水を示す状況がないことから、築造時の外濠は空堀であったと考えられる。外濠の平面の形状は、後円部よりも前方部がやや広がる盾形の形状で、規模は南北の墳丘主軸長で約270メートル、前方部での最大幅約250メートルと推測できた。 内濠と外濠の後円部から前方部への開き具合や、円筒埴輪から考察すると、ニサンザイ古墳よりも遡ることを示唆する結果となった。
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『堺市史』によると、1930年(昭和5年)ごろは「環隍の址は北側に完全な空地として存せられ一部は堀溜となってゐ」た。 1998年(平成10年)10月5日に墳丘の西側において範囲確認調査が実施され、若干の円筒埴輪片が出土した。 2008年(平成20年)6月9日から9月30日にかけて地中レーダー探査が行われ、古墳と関連する遺構の状況等、地盤の現状が探査された。現在の墳丘から4〜7メートル程度外側の位置において、反射面の落ち込みが検出され、周濠の可能性があることが判明した。しかし、同調査では方墳・円墳のいずれかであるか判別が不能だった。 2009年(平成21年)度には堀削調査が行われ、墳丘の西・南・東で濠を検出したことから、円墳であることがほぼ確実となった。また、規模的には大仙陵古墳周辺に位置する古墳としては、一本松塚古墳に並ぶ小型の円墳であるとされた。出土した円筒埴輪より、築造時期は大仙陵古墳より四半世紀近く遅れ、5世紀第3四半期でも新しい時期と位置づけることができた。なお、同調査で、濠から5世紀前半、5世紀後葉以降の須恵器が豊富に出土した。
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1987年(昭和62年) - 後円部南西側の濠の発掘調査が行われた。トレンチが3箇所設けられた。濠の両肩で地山を確認し、濠の埋土から、葺石と考えられる礫は出土しなかったが、円筒埴輪と蓋型埴輪が出土した。 この発掘で、幅9.6メートル、深さ1.45メートルの濠が確認された。 1994年(平成6年)6月 - 前方部側の濠と推定できる箇所で試掘調査が行われた。No9 - 12の4か所の試掘が行われた。No9 - 撹乱のため肩の位置が判明せず。 No10 - 撹乱直下で地山を確認。 No11 - 濠の堆積土を確認し、濠の深さは0.55メートルを確認し、場所は濠の肩付近と考えられた。 No12 - 濠の堆積土が良好に確認でき、深さは0.8メートルを確認できた。下層には埴輪を多く含み、堆積土から葺石と考えられる礫が出土し、前方部の濠が良好に残っていることが確認できた。 No9 - 11の所見から、前方部前面の濠の外肩の位置を推定することができた。 1999年(平成11年)11月、2000年(平成12年)2月に削平された前方部、切り通し部の試掘・立ち合い調査が行われた。No1 - 8の8箇所で調査が行われた。No1 - 4 - 前方部北側の濠の北肩を確認し、濠の深さは0.46メートルを確認した。 No5 - 前方部北側の濠の南肩を確認し、濠の深さは0.48メートルを確認した。 No6・7 - 新しい盛土の下に地山を確認し、前方部の盛土が完全に削平されていることが判明。 No8 - 前方部西側の濠の堆積土を確認し、濠の深さは0.23メートルを確認した。 開発に伴う前方部の切り通しに擁壁の設置工事が行われるにあたり立ち会い調査を行った。南端部分が大きく撹乱されていたが、前方部の盛土の状況は良好に確認できた。 前方部南側で埴輪列を確認し、埴輪列は幅0.9メートル、深さ0.25メートルの溝状の掘り込みに円筒埴輪が据えられ、東西方向に2個並んでいた。調査後に埋め戻す際に多数の円筒埴輪片が採取されたが、本来数個の埴輪が並んでいた可能性が高い。 調査結果から、本古墳を推定復元すると、周濠のある全長75メートルの前方後円墳と推定できた。後円部の濠と切り通しの観察から、墳丘の基部は地山を削り整形していると判明。前方部の盛土の厚さは、円筒埴輪列の位置で0.72メートルで、高さは推定1.45メートルと低い。葺石は原位置を保つものは確認できなかったが、表土や堆積土から出土しているので、葺石が施工されている可能性が高い。 2008年(平成20年) - 地中レーダ探査。発掘調査の予備調査として、掘削を伴わない非破壊検査を行った。周濠部 - 墳丘の南側にある道路、駐車場、および墳丘の北側の住宅地脇で、反射面の落ち込みが見られた。これまでの試掘調査結果および分布形状から周濠と推定できた。なお、周提や外濠を推定できるようなデータは得られなかった。 墳丘部 - 後円部で多数の平坦な反射面が検出され、断面形状、検出位置から墳丘の外部施設の「テラス」の可能性が高い。 後円部南側の現状・道路部分の周濠が地中レーザー探査により具体的な位置が把握できた。また後円部北側の周濠は、今まで南側の想定周濠図面を墳丘の主軸線上で折り返すことで想定するしか無かったが、今回の調査で限られた空間ではあるが連続した断面を得られた。それら結果は、従来の調査による想定範囲に収まるもので従来の想定を補足することとなった。測量図から1段目テラスのの存在が想定される高さで、連続的な反射像があり、何らかの遺構の存在が推定でき、また既存の調査で埴輪が出土した高さとも矛盾せず、テラスの位置と想定できた。墳頂部では埋葬施設、または、これに関する遺構が存在することが想定でき、その位置、範囲、深度に関する情報が、今後、これらを発掘調査を計画する際に有効だと考えられた。 2012年(平成24年) - 墳丘の残存状況と墳丘規模、特に墳丘第2段斜面の裾、葺石の確認、第1テラスと埴輪列の確認を目的として発掘調査を行った。また、第2段斜面の裾と第1段テラスの埴輪列を復元し、墳丘規模と墳丘主軸を求められることも期待された。調査場所は8区画が設定された。1区 - 墳丘北東部の濠の外側に周囲よりも60センチメートルの高まりを持つ竹林に、周濠の外肩、周提、外周溝の有無を確認する目的で設定。層序 - 表土、近世から近代の客土、地山に大別できた。周提の可能性があると考えていた高まりは、下層の遺構から近代、もしくは19世紀以降の盛土であると判明した。 遺構 - 濠、井戸、土杭、溝などを検出したが、葺石や埴輪は確認できなかった。周濠部分で肩は底に向かい傾斜後、平坦になってから再び傾斜する。この部分からは葺石、埴輪は確認できなかった。濠以外の遺構の井戸などは、近世以降の遺構と考えられ、その場所からは、埴輪片、18世紀代の肥前磁器、土師質土器、青磁、陶器、瓦片が出土した。 2区 - 1区と濠を挟んだ対岸の墳丘上に設定。層序 - 表土、墳丘被覆土、墳丘盛土、古墳築造時の基盤層、地山に大別できた。墳丘崩落土と考えられる部分から葺石と思われる礫、埴輪片が含まれていた。第2斜面裾付近で礫が多く含まれた。第1テラス部分で白いシルトが広く確認でき、他の調査区でも確認され、本古墳の墳丘盛土最下層に全面的に積まれたと推測できた。グワショウ坊古墳や長塚古墳でも同様に灰白色シルトが下層に積まれているので、墳丘構築の工法の一つと考えられる。 遺構 - 第1テラスの埴輪列、第2段斜面の裾と葺石を検出。埴輪列は5個体を確認し、第2段途中まで残存していた。埴輪列から3メートル墳丘側の地点で第2段斜面の裾と葺石を検出した。本調査区南側で噛み合うように敷かれた葺石が検出され、原位置を保つと考えられる。 3区 - 1987年(昭和62年度)調査の第2トレンチと連結する位置に設定。層序 - 表土、墳丘被覆土、墳丘盛土、古墳築造時の基盤層、地山に大別できた。墳丘被覆土から肥前磁器、刷毛目唐津、堺擂鉢を含む陶磁器類、土師質土器などを多く含み、近世以降の人為層であった。第2斜面裾付近では、埴輪、葺石多く含み、他の遺物は含まず、墳丘盛土と似ていることから墳丘崩落土と考えられる。第1テラス部分では灰白色シルト層が主体であった。 遺構 - 埴輪列の痕跡が全く確認できなかった。 4区 - 後円部墳丘南西裾に設定。層序 - 表土、墳丘被覆土、墳丘盛土を確認したが、古墳築造時の基盤層と地山は確認していない。墳丘直上にまで肥前磁器、瓦などが含まれ、近世の物と考えられる。埴輪は極めて少量で、葺石もほとんど見られなかった。第1テラスでは黄色シルトを確認したが、他区同様の第1テラス懸想に積み上げられたシルト層と考えられた。 遺構 - 第1テラスの埴輪列、瓦質土器集積意向を検出。墳丘側から7.3メートルの地点で墳丘の傾斜変換店を検出し、葺石、基底石は無いが、この付近が第2段斜面の裾と考えられる。斜面裾から濠側へ3メートルの地点で埴輪を検出、この埴輪から80センチメートルの地点で瓦質土器皿の集積遺構を検出。口縁部を下に向け複数枚重なり出土し、地鎮などの祭祀に使われた可能性が考えられる。皿は15世紀後半と考えられ古墳が築かれた後に、人の手が加わった遺構である。 5区 - 1999年(平成11年度)の立ち合い調査で検出した埴輪列の延長を確認するために設置。層序 - 表土、旧耕土、墳丘盛土を確認。旧耕土は、昭和の頃まで耕作が行われていたと考えられ、耕作土を排除すると埴輪列を検出。墳丘盛土は、粘土、砂礫を主体とし、その下層に、他調査区同様に淡黄色シルト層を確認した。 遺構 - 後円部を巡る埴輪列と、前方部へ続く埴輪列を検出。一部、小型の埴輪が含まれていた。他の調査区よりも蓋型埴輪など形象埴輪が多いのが特徴である。 6区 - 1999年(平成11年度の)の立ち合い調査で確認できなかった北側の埴輪列の検出を目的に設置。層序 - 表土、旧耕土、墳丘盛土を確認。東壁の一部と南壁に墳丘被覆土を認めるが、瓦片がある事から近世の人為層と考えられた。 遺構 - 後円部と前方部の境の埴輪列を検出した。検出した埴輪の径は、おおむね19-25センチメートルでだげ、一つが14センチメートルと小ぶりで、数個に1個の割合で小ぶりの埴輪が据えられている。これは2区や5区の調査区でも同様の傾向が見られた。 7区 - 北側のくびれ部に設定。層序 - 表土、墳丘被覆土、墳丘盛土を確認。墳丘被覆土に近代以降の盛土が含まれ、近世 - 近現代にかけ大きく削り取られ、利用されていたと思われる。 遺構 - 第2段斜面裾の葺石、第1テラスの礫敷き、埴輪列を検出、葺石は調査区中央付近で検出。北壁付近で量は少ないが直径5 - 13センチメートル前後の礫がしっかり嚙み合うように積み重なっていたため、葺石は原位置を保っていると考えられる。 8区 - 埴輪列より濠側の状況を確認するために設定。層序 - 表土、墳丘被覆土、墳丘盛土、古墳築造時の基盤、地山を確認。墳丘被覆土に、瓦や肥前磁器などを含み近世 - 近代に整地されていると考えられた。第1段テラスよりも地山を深く削り込んだ上に盛土が行われており、平坦面のある墳丘盛土が存在した可能性が高く、第1段テラスよりもさらに1段下がった位置に平坦面(テラス面)が存在することになり、この位置に造り出しが付属していた可能性がある。 遺構 - 第1段テラスの埴輪列を検出した。 出土遺物 - 今回の調査では遺物収納コンテナで17箱分の遺物が出土した。その9割以上が埴輪の小片で、他に須恵器甕、瓦質土器皿、青花碗、肥前磁器などの磁器類、唐津、信楽、堺などの陶器類、土師質土器甕、火鉢、炮烙、竈、羽釜(施釉)、瓦質土器羽釜、透明釉皿、瓦、ミニチュア製品などが出土している。埴輪以外の出土品で、中世以前の遺物は、須恵器甕、瓦質土器皿、青花碗の13点のみで、他は全て近世から近代の遺物だった。出土の埴輪は大部分が円筒埴輪で、形象埴輪は6点。須恵器甕は表土付近から出土し、古墳に伴うものかは不明である。 本古墳は削平や撹乱を受けているが、旧状をよく留めていることが確認できた。近世から近代に、人為的活動が墳丘直上まで及んでいたが、各調査区で葺石や埴輪列を検出することができ、古墳内容についても多くを得ることができた。 第一テラス - 第1段斜面との境が明瞭ではないが、3区、8区の状況から幅は約4.5メートルに復元できる。古墳時代の基盤層から50 - 80センチメートルの盛土が行われ、傾斜角は2 - 4度と想定できる。盛土にさいし、最下層に黄褐色系の砂粒混じりのシルトおよび、灰白色シルトを前面に敷いたことが推測できた。 埴輪列 - 第1テラス上で、3区以外の全調査区から検出した。第2段斜面裾から約3メートル、想定テラス端まで約1.5メートルの位置に並べられており、テラス面を2:1に内分する位置にあたる。 第2斜面裾と葺石 - 第2段斜面の裾部で葺石を検出。葺石は長径5 - 13センチメートルと小振りで、7区では基底石も確認した。全体的に葺石の状況は良好ではなく、特に斜面上部は自然法楽などにより失われているようである。、今回の調査では、段築が2段か3段かの確認はできなかったが、想定される斜面傾斜角、墳頂部の高さから、2段の可能性が高いと考えられる。地中レーダ測量で指摘されている埋葬施設の有無は今後の課題となった。 造出 - 後円部南部のくびれ部付近で、造出を持つ可能性があった。1999年(平成11年度)の立ち合い調査で濠への落ちが確認できなかったことから、北側にもその可能性が考えられる。 周提・周濠 - 今回検出した埴輪列と第2段斜面裾は、ほぼ完全に同心円の正円上に配置されていた。この正円から後円部の中心を求め、前方部は埴輪列からテラス端までを1.5メートルと仮定し、試掘・立ち合いで得た地山と濠埋土との関係から、埴輪列とテラスの端を導き出した。これにより前方部の中心線と、後円部の中心点を結び主軸を求め、前方部前面と濠外肩の方向を導いた。これらより、復元される本古墳の全長は84.8メートル、後円部径67.6メートル、前方部幅32.0メートルとなった。 本古墳の築造時期は、円筒埴輪の年代観より5世紀後半、ニサンザイ古墳と同時期かやや後と考えられる。
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