逓信省標準船
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ワシントン海軍軍縮条約脱退後の国際情勢悪化の可能性を見込んで、1936年(昭和11年)から標準船制定の動きが起きた。日中戦争中の1939年(昭和14年)4月に正式決定され、造船量の増大や効率化を目的に大小貨物船6形式が計画された。その後日本のパナマ運河経由ニューヨーク航路の高速貨物船(いわゆるニューヨークライナー)に相当するL型が計画されるが、さらなる情勢悪化により中止。艦隊随伴用大型タンカーのTL型、蘭印向け中型タンカーのTM型、鉱石運搬船のK型が追加された。また、D型とE型の中間にあたるH型も計画されたが、こちらは計画のみに終わった。後の戦時標準船の制定により平時標準船とも呼ばれ、第1次戦時標準船はこの型式をベースにして設計されている。 ※以下、諸元は総トン数・機関・最大速力の順 A型(タービン6,300トン・ディーゼル6,200トン・レシプロ6,400トン、タービンorディーゼルorレシプロ、タービン&ディーゼル15.5ノット・レシプロ15ノット) 6船倉式三島型貨物船。タービン船は建造されなかったが、ディーゼル船が日本鋼管鶴見造船所で1隻、レシプロ船が川南工業香焼島造船所で7隻建造された。うちレシプロ船は非公式で、1隻が応急タンカーに改装された。レシプロ船とディーゼル船とは、4番船倉用デリックポストの位置が異なる。全て太平洋戦争で戦没した。5tデリック×12基を搭載、25tデリック×1基を搭載した。 B型(4,500トン、タービンorレシプロ、14.5ノット) 5船倉式三島型貨物船で、川崎重工業神戸造船所等で10隻建造された。うち2隻は応急タンカーに改装されている。9隻が太平洋戦争で戦没し、終戦時残存したのは1隻のみである。5tデリック×10基、20tデリック×1基を搭載。 C型(2,750トン、タービンorレシプロ、13ノット) 4船倉式三島型貨物船で、名古屋造船等で41隻(制定前から同一要目で建造された新京丸型を含めて50隻)建造された。うち、タービン2隻、レシプロ1隻が応急タンカーに改装された。太平洋戦争で全て戦没し、戦後に1隻が浮揚再生された。 D型(三島型1,990トン・船尾機関型1,900トン、レシプロ、三島型12ノット・船尾機関型13.5ノット) 4船倉式三島型貨物船と、2船倉式船尾機関型の2パターンある。三島型は藤永田造船所等で16隻、船尾機関型は日本海船渠等で44隻(同一要目で建造された船を含むと53隻)建造された。船尾機関型は日之出型貨物船の第二靑山丸(大興汽船、1,898総トン)の設計をそのまま踏襲しており、第二靑山丸型貨物船とも呼ばれる。船尾機関型は非公式で、うち6隻が応急タンカーに改装された。三島型は太平洋戦争で14隻が戦没し、2隻が終戦時残存していた。船尾機関型は太平洋戦争で44隻が戦没し、2隻が終戦時残存していた他、2隻が浮揚再生された。戦後、船尾機関型は2隻が第1次計画造船でKD型として建造された。 E型(830トン、ディーゼル、10ノット) 2船倉式三島型貨物船で、6隻が建造された。3隻が太平洋戦争で戦没した。 F型(490トン、ディーゼル、10ノット) 1船倉式船尾集約型貨物船ではあるが、建造数がはっきりしない。 K型(三島型5,400トン・長船尾楼型5,950トン・船尾機関型5,800トン、三島型レシプロ・長船尾楼型&船尾機関型タービン、三島型&長船尾楼型15ノット・船尾機関型15.5ノット) 4船倉式三島型貨物船と、4船倉式長船尾楼型、5船倉式船尾機関型の3パターンある。三島型は三菱重工業神戸造船所で7隻、船尾機関型は東京石川島造船所で2隻、長船尾楼型は日本鋼管鶴見造船所等で8隻建造された。三島型と長船尾楼型3隻ずつ、計6隻が応急タンカーに改装された。太平洋戦争で全てが戦没した。 TL型(10,000トン、タービン、19.5ノット) 艦隊随伴用大型タンカー。播磨造船所で設計されたが、当時多数が就役していた川崎型油槽船を建造した方が良いと判断されたためか、商船としては起工されず、海軍給油艦仕様の風早、速吸の2隻のみが起工され、速吸は後に航空機搭載に計画変更されたため、風早のみがオリジナルに近い形態で竣工した。 TM型(5,200トン、タービン、16.5ノット) 蘭印向け中型タンカー。日立造船桜島工場等で7隻が建造された。太平洋戦争で全て戦没し、戦後に1隻が浮揚再生された。
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