只見特定地域総合開発計画 - 奥只見と田子倉 -
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「阿賀野川」の記事における「只見特定地域総合開発計画 - 奥只見と田子倉 -」の解説
詳細は「只見特定地域総合開発計画」を参照 こうした状況下、1950年(昭和25年)国土総合開発法の施行に伴い全国19地域が総合開発を重点的に実施する「特定地域総合開発計画」に指定され、只見川流域は電力開発を強力に推進し首都圏への電力供給に資するべく1951年(昭和26年)「只見特定地域総合開発計画」に指定され、国策として遂行されることとなった。日発は同年、電気事業再編成令によって全国9電力会社に分割され日発東北支店は東北電力に、日発関東支店は東京電力として発足した。だが発足間もない電力会社の経営基盤は脆弱で、単独での事業遂行は困難であると予想されたが発電用水利権を巡り両者は激しく対立。また只見川の開発をどのように進めるかで福島県と新潟県も鋭く対立した。政府は電力開発を補強するため1952年(昭和27年)に電源開発株式会社が発足、只見川の水力開発事業に参入。水利権をどのように調整するかが課題となった。 1953年(昭和28年)「電源開発調整審議会」の裁定によって只見川の水力発電計画は「只見川本流案」に新潟県が主張した「只見川分流案」を一部組み込む折衷案が採用され、阿賀野川・伊南川の全発電所と本名ダムよりも下流の只見川は東北電力が管掌し、電源開発は只見川上流の4ダム計画と「分流案」による水力発電計画を受け持つことになった。ただし東京電力が主張する「尾瀬分水案」は盛り込まれなかった(後述)。こうして只見川の水力発電計画は始動、1952年に東北電力は天然湖である沼沢湖を上池、宮下ダムを下池として日本初の純揚水発電所・沼沢沼発電所(43,700キロワット)を完成させた。電源開発は銀山地点と田子倉地点に日本屈指のダムと、日本最大級の一般水力発電所を建設した。これが1959年(昭和34年)に完成した田子倉ダムと1960年(昭和35年)に完成した奥只見ダムである。堤高・総貯水容量・湛水面積の何れも日本最大級で、日本のダムの歴史に名を残すこのダムによって田子倉発電所(38万キロワット)・奥只見発電所(36万キロワット)が稼動。日本有数の電源開発地帯となった。 なお、この電源開発事業に伴い物資輸送のための鉄道が建設されたが、ダム建設後は、1961年に国鉄只見線として整備され1971年(昭和46年)に全線開通した。また1973年(昭和51年)には新潟と福島を結ぶ難所・六十里越(国道252号)が六十里越トンネルの完成によって通行可能となり、陸の孤島であった只見川上流部は会津若松や魚沼方面のアクセスが飛躍的に向上した。
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